2015年3月1日現在

ザンスカール(インド・ヒマラヤ)登山小史

文責 阪本公一

 ザンスカールは、ジャムー・カシミール州の東北部の地方であるラダックの西にある地域で、行政的にはラダックに含まれる。標高 3500~7000mにおよぶ高地で、約7000平方キロメートルの面積がある。このザンスカール高地は、ザンスカールの三つの支流域からなる。ペンジ峠 (Pensi La, 4400m)近くに源を有するドダ河(Doda )が南に流れ、南のシンゴラ峠 (Singo La, 5096m)近辺から北に流れるツアラップ河(Tsarap )= 又はLungnak or Lingti が, パダム (Padam)で合流してザンスカール河となる。このザンスカール河は北東方向に流れ、レー(Leh)の近くでインダス河と合流する。

 ザンスカール高地は、ヒマラヤ山脈の北にある高地で半砂漠乾燥地帯であり、降水量は年間100mm以下で、冬期は極めて厳しい寒さとなる。パダムに通じる車道は、カルギル(Kargil)からペンシ峠(Pensi La)越えの道しかなく、降雪の為11月から5月までは通行止めとなって車でパダムまで入れなくなる。10年ほど前から、パダムからシンゴラ峠(Singola, 5086m)を越えてダルチャ(Darcha)に至る車道の工事が始まったが現段階ではプルネ (Purne)あたりまでしか車道は出来ておらず、貫通までには未だ相当の年数がかかるものと思われる。

 ザンスカールの人口は、2005年の時点で約10,000人と予測されている。ザンスカールに住む人々は、ザンスカール語を話すチベット系の民族で、牧畜と農業で生活をしており、住民の大半は敬虔なチベット仏教の信者で、村道のあちこちにマニ石を積んだメンダンが見られる。 尚、ザンスカールとは、ザンスカール語で「白い銅」の意である。

 パダムはザンスカールの中心地で、ドダ河とツラップ河の合流点にある広大な盆地にあり、小さいながら商店街や病院もある。ザンスカール全体の住民は仏教徒が大半だが、パダムの町の住人の半数ぐらいは回教徒と言われている。

 パダムの町には、ポタン(Potang)と言う小さなパダウム王宮があり、パダムの町はずれのツラップ川河畔には、岩に刻まれたギャワ・リンガ磨崖仏があり、観光の対象になっている、ダライ・ラマの夏の別荘も、多くの人が訪れる。

 パダム近辺には、チベット仏教の寺院が非常にたくさんあり、ザンスカール・ツアーの目玉になっている。パダム盆地のザンスカール河の北側には、壮大なカルシャ・ゴンパ(Karsha Gompa )があり、その対岸の南側にパダムの盆地を見渡せる丘の上にトンデ・ゴンパ(Thonde Gompa)がある。ザンスカール河を更に東に行くと、ザンラ (Bzanla )王の小さな王宮がある。

 パダムの町の北には、アテイン(Ating)村の近くにゾンクル・ゴンパ(Dzonkhul Gompa)があり、サニ(Sani)村にはサニ・ゴンパ(Sani Gompa )がある。

 パダムの南へ車で1時間足らずの所に、バルダン・ゴンパ(Bardan Gompa)とムネ・ゴンパ(Mune Gompa)があり、更にツラップ河を南に遡行したプルネ(Purne)から3時間ほど歩いてところに岩壁に築かれた天空のお寺と言われている有名なプクタク・ゴンパ(Puktal Gompa)がある。

 ザンスカールの歴史は、青銅時代にまでさかのぼることが出来る。その頃に岩に掘られた岩面彫刻やストーン・ペインテイングが残っていて、描かれた動物や狩猟の絵から、中央アジアの草原から移住してきた狩猟民族が住んでいたことが推測されている。 初期仏教は、少なくとも紀元前2世紀にはザンスカールに伝播していたと思われる。10世紀と11世紀に、2つの王朝が構成され、ラダック王国を宗主国としていた。1822年にクルとサホール、キナウルの連合がザンスカールを侵略し、パドウム王宮を壊滅した。

 1842年に、ザンスカールとラダックは、インドのジャムー・カシミール州の一部として併合された。1947年の印パ戦争では、パキスタン軍がカルギルからザンスカールに進入し、各地の寺院が破壊された。

 1990年後半には回教徒が多く住むカルギル(Kargil)地区で、仏教徒のザンスカール人との紛争が何度か発生し、又パキスタン軍からの空爆で死傷者が出たこともあった。パキスタンとの対抗の為、カルギルの近くにインド軍隊の大きな駐屯所が設置されている。

 東のインダス河と西のドダ河・ツラップ河に囲まれた地域の、真ん中を南北に連なる山脈がザンスカール山脈と呼ばれているが、氷河も殆どなく女性的なたおやかな山々が殆どなので、本格的な登山の対称になっていない。ナンガパルバット(8126m)から、Nun (7135m)・Kun (7077m)を経て、Darcha までいたるGreat Himalayaには、ヌン・クン山群に始まり、その南は東側はザンスカール山群、西側はキシュトワール山群と呼ばれている。これらの山群には、氷河が発達しており、魅力的な鋭峰が多いので登山の対称とされてきた。

 Nun (7135m)・ Kun (7077m)から、その南のシャファト氷河(Shafat Glacier)及びその南のダルング・ドルング氷河(Darung Drung Glacier )の流域の山々には、かなりの数の遠征隊が入り登頂されてきた。しかし、それより南の谷には全くと言っていいほど、探検隊や登山隊が入っておらず、どのような山があるのさえ明らかになっていなかった。

 2009年より京都の阪本公一とその山仲間が, 南部ザンスカールの未踏峰探査を計画し、2009年にレルー谷(Reru Valley), 2011年にレナック谷・ギャブル谷(Lenak Nala・Giabul Nala)、2012年にテマサ谷・ゴンペ谷・ハプタル谷(Temasa Nala, Gompe Tokpo, Haptal Tokpo)の未踏峰探査を行った。その結果、ザンスカール南部の知られざる未踏峰がほぼ解明され、彼等が発表した記録を参考にして、2014年までに既に、日本隊4隊、外国隊4隊合計8隊が南部ザンスカールに遠征して初登頂を達成している。が、ザンスカール南部には、未だ手つかずの知られざる未踏の6000m峰が数多く残っている。

 ヌン・クン山群                  NunKun Area

 ヌン・クン山群は、ジャムー・カシミール州のスリナガールの東部に位置していて、カルギルから南に流れるスル河(Suru River)の上流域にある。スル河流域の村タモ(Tamo)あたりから真南に見える真っ白な三角錐の鋭峰がヌンNun (7135m)であり、その左(東)の岩峰がクンKun (7077m)である。

 このヌン・クン山群は、ラダックやザンスカール山群と同様に、モンスーンの影響を殆ど受けない。スリナガールからのアプローチが短く簡単なので、この山群には早くから欧米の登山家が入っている。

 1902年にイギリスのA. ニーブとC.E. バートンが、シャファット氷河(Shafat Glacier)を探査し、セルテイク氷河からパルマルに出た。1903年には、オランダのH. シレムが、バルカッテイ氷河から北側のを偵察した。1904年には、A.E.ニーブとC.E.バートンが再びシャファット氷河を探査し、翌年の1906年にはアメリカのワークマン夫妻がシャファット氷河に入った。

クン峰           Kun  7077m  [34"02・76"04']

「山容と地形」ヌンの北東4kmにある岩峰で、この山群の第2の高峰。別名メル(Meru)と呼ばれチベット語で「水晶の柳」を意味する。西側が鋭い岩壁になっており、頂上からのびる東稜はなだらかで、コルを挟んで東のピナクル・ピークPinnacle Peak (6995m)に連なる。スル河沿いのセンテイック(Senhtik)からパルカテイック(Parkachik)へ至る車道から眺めるヌン・クンの威圧的な西壁は圧巻である。

「登山史」1913年、イタリア隊(C. カルチャーテイ隊長)が、バルカテイック氷河上部のスノ・プラトーと呼ばれる雪原から、クンとピナクル・ピークを結ぶ稜線に出て、北東稜から初登頂した。1971年にインド軍隊隊が第2登し、1974年に西ドイツ隊(L.クライアル隊長)が登頂、1977年にH.シュネル夫妻の西ドイツ隊、1978年にインド隊(S. シーマ隊長)が登頂、1979年に東海学生山岳連盟隊(片桐正登隊長)の登頂、1981年に岡山クライマーズ・クラブ隊(近藤国彦隊長)が西稜から西壁を経て登頂している。その後も、毎年のように遠征隊が入る人気の山である。

ヌン峰         Nun  7135m   [34"02'・76"02']

「山容と地形」ヌン・クン山群の最高峰で純白のピラミダルな山。別名でセル(Seru)と呼ばれ, チベット語で「塩の山」の意味らしい。

「登山史」エベレストとナンガパルバットが初登頂された1953年に、フランス隊(B.ピエール隊長)が南面のファリアバード氷河から、西稜にとりつきフランス女性のC.コーガンとスイス牧師のP.ヴィトーが初登頂した。1971年に、インド隊(K.P.ヴェヌゴバール隊長)がセルテイック氷河から西稜にとりつき第2登した。1976年にチェコスロバキア隊(F. セシカ隊長)が困難な北西稜から登頂。1978年に、日本ヒマラヤ協会隊(沖允人隊長)が西稜から登頂し、同10月に明治学院大学隊(小堀一政隊長)が初めて東稜から登頂した。アプローチが短いこともあって、毎年のように数隊が入山し、日本からもその後も数多くの遠征隊が入っている。

ピナクル・ピーク     Pinnacle Peak (Lingsarmo)   6995m [34"02'・76"05']

「山容と地形」クン峰のすぐ横にあるこの山群では標高第3位のピーク。最近、Lingsarmoと言う新山名がつけられ、標高も従来の6993mから6995mに変更された。市販の地図では、従来通りPinnacle Peak 6993mと表記されている。

「登山史」1906年に、アメリカのワークマン夫妻(Fanny Ballock Workman)が、北側のスル河からシャファト氷河(Shafat Glacier)を登って、ヌン・クン山群を探査した際、このピナクル・ピークに初登頂した。

ホワイトニードル    White Needle  6600m  [34"00'・76"02']

「山容と地形」ヌン峰とクン峰の間の稜線上にある山。

「登山史」1934年に、ヌン峰を目指したイギリスのJB ハリソンとJ. ウオーラが東稜より初登頂した。しかし残念ながらそれより先の稜線が厳しくヌン峰には行けなかった。

Z1 峰                        6181m    [33"58'・76"07']

「山容と地形」シャファット氷河河(Shafat Glacier)の右岸奥にある山。ちょうどヌン峰の対岸に位置し、スル河との合流点からも顕著に見られる大きな雪庇を持った迫力のある山である。

「登山史」1980年に、北大ワンダーフォーゲル部OB隊(大内倫文隊長)が西稜より初登頂した。シャファット氷河に入るのに、スル河を渡渉したが、水流が激しく渡渉に苦労し、スル河にロープを渡し丸1日かかって荷物を対岸のシャファット氷河に搬送した。シャファット氷河の正面壁を登り西稜のコルに出て、西稜経由で上部のプラトーに達するルートで登頂した。

Kun (7077m) =left, Nun (7135m) =right
Kun (7077m) =right, Pinacle Peak (6996m) = left
Z1 (6181m ) in Shafat Glacier

ダルウン・ドルウン氷河山域       Darung Drung Glacier Area

P5802   [33"47'・76"18']   &  P5825   [33"46’・76"17']

「山容の地形」ペンジ峠 (Pensi La)から、ペンシルンパ川(Pensilungpa Vally)とダルウン・ドルウン氷河の間を西に延びる境界稜線上にある山で、Z8より西にある山々。

「登山史」2013年に、英国隊(D. バックル隊長)がペンシルンパの探査に出かけた時に、初登頂し、ヒドン(Hidden Peak, 5802m )及びツイン(Twin Peak, 5825m )の仮称をつけた。The Himalayan Journal Vol.69に記録が発表され、概念図も挿入されているが、Leomann Mapsや沖允人氏作成の概念図の標高とも異なり、山の特定は困難である。

Z2                         6175m   [33"47'・76"06'']

「山容と地形」ペンジ峠 (Pensi La)の北側のZ2氷河(Pundum Glacier ともよばれている)の奥にあるピラミッド型の鋭峰。

「登山史」1977年に、イタリア隊(G・ニスコイニー隊長)が Z8峰に続いて、南稜から初登頂した。1982年に、イタリア隊(G.カルノ隊長)が第2登した。

Z3 峰                        6270m/6189m    [33"44'・76"19']

「山容と位置」ボヨ・コマ(Boyo Comma)の集落の南西約10km, ダルウン・ドルウン氷河(Darung Drung)の中流域右岸にある山で、頂上部に雪を被ったドーム型の奇怪な形の山。

「登山史」1914年8月に、イタリア隊(M. ピアンツア隊長)が西稜から初登頂した。チマイタリア(Cima Italia )と名付けていたらしい。1981年8月に、イタリア隊(G. アゴステイノ隊長)が第2登、1982年にイタリア隊(O. カンペセ隊長)が第3登、1983年にアイルランド隊(J. リナム隊長)がZ8偵察の後西稜からZ3に登頂した。1984年8月に独協大学隊(三木茂総隊長、酒井勝雄隊長)は、ラハーモ(Rahamo)に初登頂した後Z3に登頂したが、下山中に隊員1名が落石で負傷したが、無事カルギルへ搬出した。

Z3 (6270m) in Darung Drung Glacier

Z8            6050m  [33"49'・76"19']

「山容と地形」ダルウン・ドルウン氷河の左岸にある山で、ペンジ峠の前に聳える山。

「登山史」1977年7月に、イタリア隊のG.ブスコイーニ隊長とその夫人が北西稜から初登頂した。1978年にもイタリア隊が初登頂したらしい。1983年にアイルランド隊がダルウン・ドルウン氷河からZ8を目指したが断念、1987年8月に東京学芸大学隊(竹本哲雄隊長)もダルウン・ドルウン氷河から挑戦したがやはり登頂出来なかった。2006年8月に中京山岳会隊(沖允人隊長)がペンジ峠からZ8峰に試登している。

Z8 (6050m ) on the west ridge from Pensi La

ジイオルギイオ峰     Giorgio   6535m   [34"02'・76"29']

「山容と地形」リンドン・ゴンパの南にある無名峰である。

「登山史」2005年に、イタリア隊(M. Giovanni 隊長)が初登頂し、ジイオルギイオ(Giorgio)と命名した。詳細な記録がないので、山座を同定するのは困難。標高も疑問あり。

ドダ峰又はドーダ峰          Doda   6550m [33"38'・76"18']

「山容と地形」ハスキラ氷河(Haskira Glacier)の右岸、カンゲ氷河(Kange Glacier)の左岸にある山。両氷河経由はアプローチ・ルートとしては危険なので、ダルウン・ドルウン氷河経由でこれまで登頂されている。

「登山史」1976年9月に、東洋大学隊(大滝憲司郎隊長)が、ダルウン・ドルウン氷河を登り、氷河の源頭近くから北稜経由で双耳峰の西峰(6550m)に初登頂した。その2日後、北西壁から最高峰の東峰(6560m)(Doda-E)にも初登頂した。1981年8月に、学習院大学探検部が無許可でダルウン・ドルウン氷河の奥のピークを目指したが、1名がクレバスに落ちて死亡した。1986年に東京高体連(高橋清輝隊長)がダルウン・ドルウン氷河に入り、北稜からP6150mに初登頂したらしいが、どのピークに登頂したのか特定出来ていない。1997年に北海道大学山岳部隊(辺見悟隊長)が、ダルウン・ドルウン氷河から第2登。

デリュージョン峰      Delusion   6560m  [33"44'・76"13']

「山容と地形」ダルウン・ドルウン氷河の奥の山。

「登山史」1977年にイギリス隊が、角のようなジャンダルムを持つ無名峰を初登頂し、デリュジョン峰と命名したが、その標高には疑問が持たれている。1980年にイギリス隊(A. ベルガマッテイ隊長)がダルウン・ドルウン氷河に入り、P5330, P5810( Flavia), P6110 (Bologna), P5930 (Pyramid), P5710 (Modena), P5680 (White Wall)の6座に登頂したが、地図上で彼等の登った山の特定は困難である。1983年に、イギリス隊がこの山域に入り、P6550 (Doda), P6000(Rahamo), P5600 (View Poin Peak)に登頂した。彼等はP5600をパンサー・ピーク(Panther Peak)と命名した。

ビュー・ポイント・ピーク  View Point  5557m/5600m   [33"44'・76"15']

「山容と地形」ダルウン・ドルウン氷河の奥の山。

「登山史」1977年に、イギリス隊(G.Cohen, R.Collister, D. Rubens)がダルウン・ドルウン氷河に入り、左岸の尾根上にあってブルル氷河源頭に位置する無名峰(5557m/5600m)に北稜から登頂し「View Point Peak 」と命名した。その後、コウガル峰(Cougar)とか、パンサー・ピーク(Panther Peak)と命名する遠征隊もあらわれ、3つの山名が出来てしまい混乱している。

ラハーモ峰         Rahamo=Z10-N  北峰 6000m   [33"39'・76"07']

「山容と位置」Z3峰のすぐ南にある山。Leomann Maps に記載された5892mの無名峰である。沖允人氏達が2008年に探査された際に、Z10-N北峰と仮称されている山である。

「登山史」1984年8月に、独協大学隊が北稜から岩尾根を辿り初登頂した。

(注)ダルウン・ドルウン氷河流域及びその近辺の山塊は、多くの遠征隊が入っているが、地形が複雑なこと、正確な市販地図がないこと、そして欧米の遠征隊は自分達の初登頂記録に登頂ルートを明記する概念図を添付していないことから、この山域の登山史は混乱してきた。 2006年と2008年に中京山岳会の沖允人さんが、この山域を探査され、その記録を日本ヒマラヤ協会の季報ヒマラヤ No.447, 448, 及び中京山岳会ザンスカール遠征隊2008年報告で詳細な探査報告をされたのでかなり理解しやすくなった。

ハプタル谷山域         Haptal Tokpo Area

Google earth photo ( Haptal Tokpo )

P5845 (H17)               5845m  [33"28'・76"42']

[山容の地形」ハプタル谷(Haptal Topkpo)に入ってすぐ目に入る顕著な無名の岩峰。チョゴ谷 (Chhogo Tokpo)との出合いの右岸に位置し、ハプタル谷の守衛のような山。ハプタル谷は、サニ村(Sani)から西に入っている大きな谷で、両岸が開けた台地となっていてヤクの放牧に利用されている。ハプタル氷河(Haptal Glacier )経由ウマシ峠(Umasi La)を越えて、キシュトワールに出る交易路として、かってはパダムの住民に利用されてきたが、現在は余り使われていない。2012年7月に、京都ザンスカール未踏峰探査隊(阪本公一隊長)がテマサ谷(Temasa Nala ), ゴンペ谷(Gompe Tokpo)とハプタル谷を歩き、これまで知られていなかった未踏峰を登山界に紹介した(日本ヒマラヤ協会季報ヒマラヤ No.463, 2012 Winter )。

「登山史」未踏峰である。

(注)* P5845(H17), P6070 (L15), P6071(R1) のように表記されているH17, L15, R1等の記号は、無名峰の同定をしやすいように、京都ザンスカール未踏峰踏査隊がつけたものである。ハプタル谷、ゴンペ谷、テマサ谷、レルー谷、レナック谷、ギアブル谷で探査した山々には、全て上記のようなアルファベット記号をつけた。

P5845 (H17) in Chhogo Tokpo of Haptal Tokpo

P5740H14) 5740m「33"24'・76"43'」&  P5860 (H15) 5860m「33"23'・76"42']

「山容と地形」ハプタル谷は標高4158mのところで二股にわかれているが、この合流点にでんと構えている岩峰がP5740 (H14)。H14の左に連なり、左股のユラチュク氷河(Yurachku Glacier)の左岸にある岩峰がP5860(H15)である。二股が、ユラチュク氷河の舌端になっていて、このハプタル谷の二股までは馬で隊荷の搬送が可能。

「登山史」両山ともに未踏峰。

P5740 (H14) = right, P5860 (H15) = left in Hapatal Tokpo

P5840(H16)  5840m  [33"22'・76"43']  &  P5974 (H18) 5974m   [33"22'・76"39']

「山容と地形」ユラチュク氷河右岸にある秀麗な白い山がP5840(H16)、最奥の山がP5974 (H18)である。

「登山史」いずれの山も未踏峰。

P5840 (H16) in Yurachku Glacier of Haptal Tokpo

P6042(H3)  6042m   [33"27'・76"42'],   P5945(H9)  5945m    [33"28'・76"41']

P6010(H10) 6010m   [33"28'・76"40'],   P5910 (H11) 5910m   [33"27'・76"39']

「山容と地形」右股のハプタル氷河(Haptal Glacier)は、出合いから小滝の連続となり、屈曲点の氷河の舌端にて、更に二つにわかれる。右の氷河の奥にあるのが、上記P6042(H3), P5945(H9), P6010(H10), P5910 (H11)。

「登山史」全て未踏峰。

P5775(H13) 5775m   [33"26'・76"41'」

「山容と地形」右股ハプタル氷河の氷河舌端の奥にある岩山がP5775(H13)である。この山で氷河が左右にわかれる。

「登山史」いずれも未踏峰

P5775 (H13) in Haptal Glacier

P5878 (H21) 5878m   「33"27'・76"38]  &  P5730(H20) 5730m   [33"25'・76"38']

P6010 (H19) 6010m [33"23'・76"38']

「山容と地形」P5878 (H21) と P5730 (H20) は、ハプタル氷河左股の広大な雪原の奥に聳えるピーク。雪原の南にあるのがP6010 (H19)。

「登山史」全て未踏峰。

P5878 (H21) and P5730 (H20) in Haptal Glacier

P6085 (H2)                  6085m    [33"28'・76"43']

「山容と地形」支谷のサタチャン谷(Satachan Tokpo)の奥にある山。テマサ谷の合流点から小滝の多いゴルジュ帯になっているので、ゴルジュ通過に少し手間取るかも知れない。両岸は、登攀意欲を誘うようなピナクルを携えた岩稜となっている。

「登山史」未踏峰。このP6085(H2)の北側にあるランテイック谷(Rangtik  Tokpo)の右岸に未踏峰のP6278(H5)[33"28'・76"28'」とP6193(H8)[33"28'・76"43'」がある。

ゴンペ谷山域         Gompe Tokpo Area

P6157 (T20) 6157m [33"25'・76"48'」&  P6162 (T19) 6162m  [33"24'・76"48']

「山容と地形」パダム (Padam)の西にあるゴンペ谷(Gompe Tokpo)の左岸に聳える山。パダムの町から目の前に見える、大きな雪庇をつけた人を寄せ付けないような威圧的な山容の秀峰がP6157(T20)。その裏にあるのがP6162(T19)。両峰ともOpen Peak に指定されている。

「登山史」二つの山とも未踏峰。パダムの町から手に取るように見えるP6157(T20)が未だに未踏峰として残っているのは、登攀困難と判断と思われてきたためだろうか。2012年に京都ザンスカール未踏峰探査隊(阪本公一隊長)が、この谷に入ったが、これまでこの谷に入った登山者や探検家はいなかったとのウバラック(Ubarak)の村長の話だった。パダムからウバラック(Ubarak)村経由で尾根を越えてゴンペ谷に一端おりてから、ゴンペ谷を登ると内院の台地に出る。この台地の上は広い開けた谷になっている。P6157(T20)とP6162(T19)の間の小さな氷河からコルに出れば、両峰とも登頂の可能性はあろう。

unknown peaks in Gompe Tokpo photographed near Thonde Gompa
P6157 (T20) photographed from Padam

P6431(T16)  6431m 「33"23'・76"48'」&  P6184T18)  6184m  「33"23'・76"47’」

「山容と地形」ゴンペ谷の氷河をつめたコルの近くにあるのがP6184(T18)。右岸の大岩壁の山がP6431(T16)。両山ともOpen Peakである。

「登山史」両山とも未踏峰。ゴンペ谷の上部氷河は雪壁となっており、コルに出るのはかなり厳しそうである。P6431(T16)は、すぐ隣のP6436(T13)と共に、ザンスカール南部では最も高い山である。

Veiled virgin peaks in Gompe Tokpo

テマサ谷山域                Temasa Nala Area

Google Earth photo (Temasa Nala)

P6436 (T13)                 6436m    [33"22'・76"47']

「山容と地形」テマサ谷 (Temasa Nala )の支谷であるコルロムシェ谷(Korlomshe Tokpo)の源頭にあるどっしりした威圧的な岩峰。Open Peak に指定されている。

「登山史」未踏峰。P5908(T11)の下でコルロムシェ谷が右に曲がるが、その手前の氷河が始まる地点あたりにBCの適地がある。

P6436 (T13) in Korlomshe Tokpo phtographed by Mr. Okabe

P5957(T10)  5957m  [33"19'・76"47']  &  P5908(T11)  5908m    [33"21'・76"49']

「山蓉と地形」コルロムシェ谷の上部屈曲点の右岸にあるのがP5957(T10)。氷河からそそりたつスベスベした岩壁の鋭峰。屈曲点手前の左岸にあるのがP5908(T11)で、T10とは対象的にガラガラの崩れた岩を積み重ねたような山である。

「登山史」いずれの山も未踏峰。

P5957 (T10) in Korlomshe Nala photographed by Mr. Okabe
P5908 (T11) in Korlomshe Tokpo

P6028(T12)                 6028m    [33"23'・76"52']

「山容と地形」コルロムシェ谷に入って、一つ目の北に入る支谷の奥にある岩山。Open Peak に指定されている。

「登山史」未踏峰。

P6028 (T12) from Korlomshe Tokpo

P6294(T4)  6294m  [33"15'・76"47']  &  P5995 (T6)  5995m   [33"15'・76"45']

「山容と地形」テマサ谷の奥のテイドウー氷河(Tidu Glacier)の右岸にある最初の大きな山がT6294(T4)。テマサ谷の下流からも眺めらる秀麗の岩と雪のミックスの山。その隣の奥に位置するのがピラミダルな山がP5995(T6)。

「登山史」両峰とも未踏峰。

P6294 (T4) =center, and P5995 (T6) = right
P6294 (T4) and P5995 (T6) in Tidu Glacier of Temasa Nala

P6022 (T7) 6022m [33"19'・77"66'] ]  &  P6107 (T9)  6107m   [33"20'・77"07']

「山容と地形] テイドウ氷河から北に入る支谷のツワン谷(Tsewang Tokpo)の内院にある山々。二股にわかれて氷河になっているが、合流点にあるのがP6107 (T9)。左氷河の右岸にあるのがP6022 (T7)である。デイドウ氷河から見た限りでは、割と簡単に登れそうである。両方の山とも,  指定されたOpen Peak である。

「登山史」いずれの山とも未踏峰で残っている。

P6022 (T7) & P6107 (T9) in Tsewang Tokpo

P5935(T2)  5935m  [33"16'・76"49']  &  T5935 (T3) 5935m [33"16'・76"43']

「山容と地形」テマサ谷からカングラ峠(Kang La)に突き上げる カングラ氷河(Kangla Glacier)の中流右岸にあるのがP5935(T2)であり、左岸にあるのがP5935(T3)である。T2は岩峰、T3は岩と雪のミックスの魅力的な山。

「登山史」いずれの山も未踏峰。

P5935 (T3) in Kangla Glacier

レルー谷山域       Reru Valley Area

P6071(R1)             6071m   [33"10'・67"54'] 

「山容と地形」レルー谷(Reru Valley)に入ってすぐ右手に見える山。バルダン・ゴンパの学校 (Bardan Gompa Scool)からレルー村までの車道からずっと見えるピラミダルな美しい山。レルー・キャンプ場にある小さな湖越しに見るP6071(R1)は、一幅の絵のような素晴らしい景観である。2009年8月に、京都ザンスカール未踏峰探査隊(阪本公一隊長)がレルー谷を探査した(日本ヒマラヤ協会季報 No.451 2009 Winter に記録を掲載)。

インド政府が発行したSurvey of India地図や、Leomann Maps, Edition Olizane 等の殆どの地図はReruと表示しているが、レルー村の人々はRaruと表示すると言う。チベット語に類似したザンスカール語を話す住民は本来アルファベットは全く使用しておらず、一方チベット語系のザンスカール語に馴染まないインド人や欧米人が耳から聞いた言葉をアルファベットに表記する場合、違いが出て来て当然である。他の地域のアルファベット表記でも、現地語を聞く人によって聴き取り方が異なる為か、地図によってアルファベット表記の違いが生じてきている。どの表記が正しいのかと議論する意味は余りない。要はその地域、場所を同定出来れば問題ないのであるから。

「登山史」未踏峰。このあたりを歩く多くのトレッカーが眺めている魅力的な山なのだが、何故か未だに未踏峰で残っている。

P6071 (R1) East Face, photographed from Bardan Gompe School
Reru Camp Site and P6071(R1)

P5947R2)  5947m  [33"18'・76"53'] &  P6177(R6)   6177m   [33"14'・76"50']

「山容と地形」レルー谷の西支谷に入って一つ目のピークがP5947(R2)。西支谷の左岸の奥にあるのがP6177(R6)である。

「登山史」京都ザンスカール踏査隊の記録をみて、2011年9月に、英国Imperial College London 隊(J.ムーデイー隊長)レルー谷の西支谷に入り、まずP5957(R2)に初登頂した。その後、P6177(R6)に挑戦し初登頂。同隊の測量では標高は6276mだった由で、山名をLama Jisma Kangriと命名した。尚、同隊が村人から聞いたところでは、この西支谷は、地元ではテトレ谷(Tetleh Nala) と呼ばれているとのこと。

P5947(R2) in Reru Valley

P6036(R3)  6036m  [33"17'・76"53']  &  P6080(R4)  6080m  [33"16'・76"53']

「山容と地形」レルー谷と西支谷の合流点のオンカル(Onkar)からも眺められる山々で、圧倒されそうな挑戦的な岩峰。西支谷の左岸に並んで聳えている。

「登山史」両峰とも未踏峰。

P6036(R3) in Reru Valley
P6036(R3=Right), P6080(R4=Left)

P5829(R5)    5829m  [33" 15'・76"53'],      P5972(R8)   5972m  [33"14'・76"50'], P6150 (R9)   6150m   [33"17'・76"51']      P6101 (R10)  6101m [33"14'・76"52'], P5831(R12)   5831m 「33 "14'・76"53']

「山容と地形」レルー谷西谷の山々。R5, R6 は左岸に、R8 とR9は源頭に、R10 とR12は右岸にある。

「登山史」全て未踏峰である。

P6177 (R6) = Lama Jisma Kangri from South ( by Dominic Southgate)

P5890 無名峰 5890m [33"10・76"49']

「山蓉と地形」レルー谷右股のナテオ谷(Nateo Nala)は、氷河舌端の下で右股と左股にわかれている。右股の奥にある地図にない無名峰がP5890.

「登山史」京都ザンスカール未踏峰探査隊の記録を読んだインドヒマラヤ・ザンスカール労山マスターズ登山隊が、2011年8月にレルー谷の未踏峰登山に出かけた。当初はP6111(R18)を登頂する目的だったが、氷河の状態が悪いので隣の無名峰 (Survery of Inida  に標高表示のないピーク)に初登頂した。同隊はこの無名峰の標高を5890mと計測した。

P5890 in Nateo Nala of Reru Valley

P5862 (R27)                   5862m     [33"12'・76"57']

「山容と地形]レルー谷に入ってすぐ正面に見える顕著な山。どこからとりついて良いのか解らないような峻嶮なピークである。

「登山史」未踏峰。

P5862(R27=Front), P6158(R26=Back)

P6111 (R18)                   6111m     [33"11'・76"49']

「山容と地形」ナテオ谷の右氷河の奥にある山。

「登山史」未踏峰。

P5825 (R19)                5825m      [33"09'・76"52'']

「山容と地形」ナテオ谷の二股の正面尾根に聳える槍ヶ岳にそっくりの山。

「登山史」未踏峰。

P5825(R19=Center), P6111(_R18=Right), P6110(R20=Left)

P6110 (R20)  6110m   [33"08'・76"11''] ,  P6008 (R24)   6008m    [33"0'・76"53']

P6128 (R25)  6128m   [33"07'・76"54'], 

「山蓉と地形」ナテオ谷の左股氷河の奥にある山々。左股氷河はかなり荒れていそう。

「登山史」P6008(R24)は、2011年にスイス隊がカトカル谷右氷河より初登頂した。他の2峰P6100(R20)及びP6128(R25)は未踏峰である。

P6128(R25)= far left, P6088(R24)= far right

無名峰 P5957                 5957m      [33"08'・77"02']

「山容と地形」レルー谷左股カトカル谷の奥の二股から左氷河に入って、右岸にある山。Survey of India には標高表示のない無名峰。P6020 (L8)の西隣の山。

「登山史」2009年に、イギリス隊がカトカル谷の左氷河に入り、北壁から西稜に出て初登頂しSkilma Kangriと命名した。同隊の計測で標高は5957mであったと報告している。(The American Alpine Journal 2010に記録掲載)

From right, P6020(L8) and Skilma Kangri in right branch of Lenak Nala

P5994 (R28)  5994m  [33”06’・76”59’]    P5817 (R29)   5817m   [33”01’・76”56’]

P5962 (R31)  5962m  [33”07’・76”57’]    P6128 (R33)   6128m   [33”07’・76”58’]

P6007 (R34)  6007m  [33”08・ 76”59’]

「山容と地形」カトカル谷の右氷河奥にある山。

「登山史」全て未踏峰の山々である。

P6007 (R34) on Katkar Nala of Reru Valley

P6148 (R35) 6148m [33"12'・77"00'] & P6158 (R26) 6158m [33"09'・76"55']

「山容と地形」レルー谷の左股カトカル谷(Katkar Nala)は、更に右氷河と左氷河にわかれる。その合流点に聳える印象的な岩峰がP6148(R35)。カトカル谷の右氷河は広い雪原となっているが、その中程の左岸にあるのがP6158(R26)。

「登山史」2012年8月に、ギリシャ山岳隊(N. クルーピス)が、先ずカトカル谷の左氷河に入り、P6148(R35)の南側にまわりこんで南稜から初登頂し、Katkar Kangriとの山名をつけた。その後、右氷河に入り、北稜よりP6158(R26)に初登頂して Muktik Skalと命名した。彼等の計測では標高は6243mとの由。最後に、英国隊が初登頂したスキルマ・カンリ(Skilma Kangri)の北東にある無名峰P5947m(同隊の計測)に初登頂し、Lama Soo と命名した。(The American Alpine Journal 2013 に記録掲載)

P6148(R35) in Katkar Nala of Reru Valley

P5825R36)         5825m    [33"17'・76"57']

「山容と地形」レルー村の真南にある岩峰。レルー村の住民にとっては門衛のような山。

「登山史」未踏峰

P5825(R36) in Reru Valley

「注」2012年8月に、スイス山岳会ジュネーブ支部隊がレルー谷の左股カトカル谷に入り、この流域の登山を行った。Red Apple (6070m), Gocook Peak (6050m), Tong'a Miduk Ri (6040m)に初登頂したと、The Himalayan Journal Vol.69 2012に登頂記録を発表した。しかし、彼等が命名した名前と彼等が計測した標高のみで記載しており、IMFの登山許可の基礎となっているSurvey of India 地図の標高を明示していなかった。更に、登頂した山を明記する概念図も掲載していない為、いったいどの山に登ったのか第三者には全く不明であった。

同山岳会に阪本が数度問い合わせたが、全く返答なし。又、同隊の初登頂をどのように記録に残しているのかIMFに問い合わせたが、IMFからも返事が来ず。そのため、カトカル谷右氷河にあるP6128 (R25), P6008 (24), P5944 (R28), P5817 (R29),P5962(R31)のどれが未踏峰で残っているのか、不明のままになっていた。

この記念誌を発行するに際し不明のまま放置すべきでないと考え、2015年1月にIMFに再調査を強く申し入れた。阪本作成の概念図と山の同定ラベルを貼ったGoogle Earth 3D画像をスイス隊に送付し、彼等の初登頂の山を正確に聴きだすべきだと厳しく申し出た。その結果、2015年2月20日にようやく全容が判明した。スイス隊が登ったRed Apple(6070m)はP6008 (R24)であり、Gocook Peek (6050m)は京大山岳部が2012年の登頂したP6080 (L13)であること、そしてTong’a Miduk Ri (6040m)はP6140 (L9)とSkilama Kangri (5970m )の間にある地図に無印のピークなることが判明した。折角初登頂しても、誰にでも解るようにキチンと登頂記録を残せない遠征隊と正確な登頂記録を残していないIMFの杜撰な管理体勢の為に、2012年京大山岳部隊のP6080(L13)の登頂記録が後味の悪い結果となってしまった。

スイス山岳会には、今後の彼等の登頂記録には登頂した山を明示した概念図を添付するよう申し入れ、且つIMFにはもっと正確の登山記録を管理するようにと強く申し入れた。

レナック谷・ギアブル谷山域      Lenak Nala Giabul Nala Area

Google Earth photo of Lenak Nala

Google Earth photo of Lenak Nala

P6080 (L13)          6080m    [33"06'・77"00']

「山容と地形」レナック谷(Lenak Nala )左股の中流左岸にある山。岩峰の前衛ピークの北側に本峰があり、その東に東峰がある。2011年8月に、京都ザンスカール未踏峰探査隊(阪本公一隊長)が、レナック谷とギアブル谷の探査を行った(日本ヒマラヤ協会季報ヒマラヤ No.463 2012 Winter に記録掲載)。

「登山史」2012年9月に、京大山岳部隊(荻原宏章隊長)が、レナック谷左股の氷河の舌端にの下にBCを設置し、氷河上からガラ場を登りP6080(L13)の小さな氷河に入って先ず東峰(6060m)に初登頂した後、その足で西峰=本峰(6080m)に初登頂した。同隊はこのピークを、ヌガツオ・カンリ(Nga Tsoey Kangri )と命名した。同隊は、当初P6070(L15)を第一目標としていたが、雪の状態が悪く危険と判断し、P6080(L13)に転進した。

P6080(L13) in the left branch of Lenak Nala

P6070 (L15)         6070m    [33"04'・77"02']

「山容と地形」レナック谷左股の中流右岸にある山。雪と岩のミックスした非常にすっきりした山容の山である。

「登山史」2014年9月に、学習院大学山岳部隊(吉田周平隊長)が東面のガリーを登り、雪面に出て初登頂をし、ギャルモ・カンリ(Gyalmo Kangri)と命名した。

From left, P6070(L15) and P6180(L14) in the left branch of Lenak Nala

P6180 (L14)           6180m    [33"04'・77"01']

「山容と地形」レナック谷左股の右岸にあり、P6070(L15)の奥隣りにある幅広い岩壁にガードされた岩峰。ちょっと見た目には、簡単に登れそうでない厳しい山である。

「登山史」未踏峰。

P6128 (R33) 6128m  [33"06'・76"04'] & P6054 (R32)  6054m [33"06'・76"58']

「山容と地形」レナック谷左股の最奥部にある山。P6128(R33)は、レルー谷とレナック谷のコルから西にせり上がった雪と岩のミックスした山で、P6054(R32)はその南の岩峰。

「登山史」いずれの山も未踏峰。

From left, P6054(R32) and P6128(R33) in the left branch of Lenak Nala

P5930 (L17) 5930m  [33"06'・77"05']  & P5975 (G3)  5975m  [33"04'・77"04']

「山容と地形」レナック谷左股に入ってすぐ左手の右岸にある雪山がP5930(L17)。P6070(L15)の東にある氷河の奥にある円錐型の白い山がP5975(G3)である。

「登山史」両方の山とも未踏峰。

P5975(G3) in the left branch of Lenak Nala

P6165 (L10)           6165m    [ 33"07'・77"02']

「山容と地形」レナック谷右股には三つの氷河があるが、最初の第一氷河の奥にある純白の山がP6165 (L10)である。第一氷河の手前に小さな湖があり、その下の広い台地が快適な素晴らしいBCとなる。

「登山史」2012年9月に、日本山岳会学生部隊がこの山に初登頂をし、ツクパ・カンリ(Thukpa Kangri )と命名した。

The right mountain, P6165(L10) in the right branch of Lenak Nala

P6140 (L9)  6140m  [33"08'・77"03']  &  P6045(L11)  6045m  [33"07'・77"03']

「山容と地形」レナック谷右股の第一氷河の左岸にある山がP6140 (L9)。もろい岩で出来た岩峰。第一氷河の右岸にある雪の山がP6045 (L11)である。

「登山史」いずれの山も未踏峰。日本山岳会学生部隊がP6165 (L10)登頂後、P6045 (L11)に試登したが、登頂は出来なかった。

P6140(L9) in the right branch of Lenak Nala.
P6045(L11) in the right branch of Lenak Nala

P6020 (L8) 6020m  [33"09'・77"02']  &   P6140 (L9)  6140m   [33"07'・77"02']

「山容と地形」レナック谷右股の第三氷河の左岸にあるのがP6020 (L8)。その対岸の右岸にある山がP6140 (L9)。

「登山史」いずれの山も未踏峰。

From right, P6020(L8) and Skilma Kangri in right branch of Lenak Nala

P5865 (G21) 5865m  [33"02'・77"06']  &  P5935 (G19)  5935m   [33"01'・77"04']

「山容と地形」シャンカ(Shanka )村からギアブル谷(Giabul Nala)を眺めてすぐ目に入る岩峰が、P5865(G21)である。ギアブル谷の右岸にあり、支谷であるナムカ谷(Namkha Tokpo = 阪本が仮称)との合流点に位置する。その奥にある大きな岩峰がP5935 (G19)であり、支谷のサチ谷(Sachi Tokpo )との合流点の右岸にある。この山は、本谷及び支谷のサチ谷のいずれからも、どこから取り付いて良いのか判断に苦しむような難峰。

「登山史」両峰とも未踏峰。

P5935(G19) on Giabul Nala
P6005(G18) in Namkha Tokpo of Giabul Nala

P6014 (G11) 6014m  [33"00'・76"59']  &  P6078 (G14)  6078m   [33"00’・77"01']

「山容と地形」ギアブル谷は、奥の二股が氷河の舌端となっている。左氷河の奥にあるのがP6014(G11)。その東にあるのがP6078 (G14)。

「登山史」いずれの山も未踏峰。

P6150   6150m   [32"59'・77"04']      &  P6115 (G22)   6115m   [32"59'・77"04]

P5850 (G23) 5850m  [32"58'・77"00 ']  &  P6015 (G31) 6015m   [32"57'・77"09']

「山容と地形」ギアブル谷に南に入っている最初の大きな支谷のナムカ谷(Namkha Tokpo)の奥にある山々。P6115 (G22) とP5850(G23)、P6015(G31)は、Survey of India 地図に明記されているが、P6150mは Eition Olizane 地図にしか標高が記載されていない。西からP6150, P6115(G22), P5850(G23), P6015(G31)の順に稜線上に並んでいる。P6115 (G22)は、ナムカ谷のつきあたりにある二股にあるピーク。P6150は右股右岸の山で、P5850(G23)は左股左岸の山。P6015(G31)は、P5850 (G23)よりの稜線上約4km 東にある山。

「登山史」2012年に、京都ザンスカール未踏峰探査隊から情報を得た英国スコットランド隊(S. ジェンセン隊長)がナムカ谷に入った。左股の氷河からコルに登り、P5850 (G23)に初登頂し、同隊の目標だったP6115 (G23)に挑戦した。東峰には登頂したが、それより先の岩稜が予想外に厳しくリスクが大きすぎると判断して登頂を断念した。 方向転換して、右股氷河を登り、右岸に取り付いてP6150 に初登頂を達成した。P6115 (G22)とP6015 (G31)は、未だ未踏峰で残っている。

P6150= P6115 (G22 ) West by Steve Kennedy
P6115(G22) in Namkha Tokpo

P6060 (G20)  6060m  [33"00'・77"00]  &  P5840 (G25)  5840m    [32"59'・77"07]

「山容と地形」P6060 (G20) は、ナムカ谷の左岸にあるガレキを積み上げたような平凡な山。P5840 (G25)は、ナムカ谷に左から入る小谷との合流点にある登攀意欲を誘う魅力的な岩峰である。

「登山史」両山とも未踏峰。

P6060(G20) in Namkha Tokpo of Giabul Nala
P5840(G25) in Namkha Tokpo of Giabul Nala

P6125   6125m   [32"55'・77"09']   &  P6080   6080m    [32"58'・77"13']

「山容と地形」シンゴラ峠(Shingo La)に連なる稜線の西約2kmにあるのがP6125の白い山で、東南約2kmに位置するのがP6080の岩峰。両山とも、峠から手に取るように眺められる。

「登山史」未踏峰。ただし、未許可で登られているかも知れない。

Ramjyak                       6318m     [32"52'・77"08']

「地形と山容」シンゴラ峠の南南東約4kmにある山。ダルチャ(Darcha)へ西から流れるジャンカル谷(Jankar Nala)とシンゴラ峠からの支谷ジャンカル・サンゴ(Jankar Sangoo)の合流点にあるザンスカール・スムド(Zanskar Sumdo)の北東約3kmの山。

「登山史」2002年にインド隊が初登頂し、2010年にインドIMF隊が第2登をしている。

P6125                          6125m      [32"57'・77"05']

「山容と地形」ダルチャから西北に入っているジャンカル谷の奥の山。ザンスカール・スムドのすぐ上流で北に入るバグラック谷(Bagrac Nala)の流域の山。

「登山史」2013年に、英国スコットランド隊(J. ニスペット隊長)が、ダルチャからザンスカール・スムドに入り南からP6115(G22)に挑戦したが登頂出来ず、転進してP6125 に初登頂した。 同隊はEdition Olizane を使用しており、彼等の記録には標高6080mと記載しているが、Survey of India 地図での標高は6125mである。同隊はこのピークを “ Goat Peak “ と命名した。

参考文献

1.WIKIPEDIA

2.ヒマラヤの高峰(雪華社発行 深田久弥著)

3.ヒマラヤ名峰辞典 (平凡社発行 薬師義美・雁部貞夫著)

4.1980 Z1登頂記録(北海道大学ワンダーフォーゲル部OB会)

5.HAJ登山学校1982年クン・南面の記録(HAJ発行)

6.1992年HAJヌン遠征隊報告署(HAJ発行)

7.ザンスカールの山(2008年中京山岳会ザンスカール登山隊)

8.  ザンスカール、Z3周辺の山々(沖允人著、日本ヒマラヤ協会季報ヒマラヤ No.447, No.448)

9.ラダック(旅行人ウルトラガイド発行)

10  The Himalayan Journal Vol. 69