インド・ザンスカールの未踏峰探査 MULUNG谷

2016年 8月

谷口 朗

 阪本公一氏に誘われてインドのラダック・ザンスカール地方を初めて訪れたのは2007年であった。緑の殆どない荒涼とした岩と雪の山々、一歩渓に入れば全く人跡を感じさせない自然、その中で驚くほど敬虔な仏教徒の村人たち、山奥の断崖絶壁の所にまであるチベット仏教寺院(GOMPA)、全てが私を魅了した。
 今年のメンバーは阪本公一氏(76歳)伊藤寿男氏(77歳)そして私(78歳)いずれもAACKの3人である。堀内潭氏(阪本と同期)が初参加とのことで期待をしていたが直前にドクターストップがかかり残念なことであった。

 今年で阪本が9度目私が8度目伊藤が5度目の同地への訪問。この内2010年のみは千年に一度とも云われた大洪水でレーの街が壊滅状態となりデリーから引き返した。
 私はいつも今後の行きたい地方・谷を伝えるのみで、阪本が全ての準備をやってくれ、現地でのリーダーも引き受けてくれている。
 今までザンスカール地方のカルギャック川の左岸をGIABUL谷・LENAK谷・RERU谷・TEMASA谷・GOMPE谷・HAPTAL谷と探査を続けてきたが今年はHAPTAL谷の一つ北の谷であるMULUNG谷と決まった。この谷は昔から針葉樹豊かなKISHTWAR地方とザンスカール地方を結ぶ重要な峠 UMASI LAへのルートであり、この峠を越すにはヤクかポーターが必要で馬では不可能と聞いていた。非常に興味深い山域である。今回は峠を越えないので馬を使うこととした。
 現地側はガイド1名 コック1名 コック補助2名 馬方2名 馬10頭のほぼいつものラインアップである。今回は阪本が直前に痛めた足首が完治していないで、初めて乗馬用の馬を一頭用意した。しかし馬に乗れるような平坦な場所は殆どなく、空荷の馬と一緒に歩いている結果となった。

8月3日    成田―DELHI (阪本は前日関空から)

4日           DELHI―LEH

5日           LEH: CHEMRE GOMPA・THAKTOK GOMPA・HEMIS GOMPA訪問

6日           LEH―LAMAYURU: LIKIR GOMPA・ALCHI GOMPA

7日           LAMAYURU―SANKU:  LAMAYURU GOMPA

8日           SANKU―PADUM  

SHAFATには馬も通れる橋ができており、NUN(7135m)KUN(7077m)やZ1(6190m)に登るパーティで賑っていた。

9日           PADUM: TONDE GOMPA・KARSHA GOMPA

10日 PADUM―JHUNKUL GOMPA対岸テント地
いよいよMULUNG谷に入る。 車でJHUNKUL GOMPAに参拝。対岸のCHABAR谷の奥にはP5830(M1)やP6124m(M2)などがある筈だが氷河の手前がゴルジュになっており奥は全く見えない。 テント地は目の前だが渡渉は不可能なのでTOKHTAの橋まで戻り馬と共に出発する。  テント地: 3780m N33-34-18 E76-41-00

MULUNG谷とDODA川との合流点

11日 JHUNKULテント地―SAMPUKテント地
今日の予定地SAMPUKは、大石が本流を塞ぎあたかもダムのように見える小山(BOULDER)を越えた所であった。この辺りから最大の支流であるNABIL谷の切れ込みとP5491m(M10)がはっきり確認出来る。 対岸にはP5689m(M28)P5609m(M29)が見えている筈だが、余り特徴のない岩山のため特定は出来ない。
夕方地元のポーター3人がUMASI LAから下りてきた。フランス人女性1名とガイドの僧を送り今朝UMASI LAを越えたKISHTWAR側のRUWAからと言う。針葉樹で作った重たい雪掻き用ヘラ(商売用)を皆が担いでおり、重さは40kgを越えている。その健脚に驚く。NABIL谷のROCK BRIDGE手前に馬の通過困難な場所があるとの情報を得た。
テント地: 4180m N33-32-05 E76-39-05

雪用ヘラ
NABIL谷とP5491m(M10)

12日 SAMPUKテント地―GAURAテント地
NABIL谷に近づき本流との間の尾根にP5491m(M10)を再確認し同定した。
出来るだけ上流にサイトを探したが適地なく、GAURAの少し上に決定する。
UMASI LAの経験豊富な地元のギャムソ(コック補助)・馬方・ガイドのヤンぺルをNABIL谷ROCK BRIDGEまで偵察に出す。 伊藤・谷口もBRIDGEの手前まで行ったが大石に阻まれ馬はおろか我々も危険を感じたので戻ることとする。 途中で橋から右岸を下りてきたヤンぺルと合流、彼の意見でも馬での通過はやはり不可能との判断であった。 キャンプ地辺りからMULUNG氷河の奥は開けており稜線まではっきりと見える。後刻 P5902m(M13) P5871m(M15)P5882m(M16)を同定した。 いずれもすっきりした素晴らしい山々である。氷河は正面から北へ深く入っているようで奥は見えない。  テント地 4110m N33-30-59 E76-37-12

P5902m(M13)
M13&P5871m(M15)
M15
M10&M15
P5949m(M19)近辺

13日
NABIL谷との合流点を越えてMULUNG氷河の舌端まで行くことにする。数本に枝分かれしたNABIL谷を渡り後は氷河の末端沿いに対岸のモレーンの上に乗ることが出来た。しかし、キャンプ地から見える以外の山は確認できなかった。
夕食後、阪本(L)から、捻挫の調子が戻らないので今回はNABIL谷を遡る行程に参加することは断念するとの発言あり。
3人で相談の結果、明日は谷口(L)・伊藤・ヤンペル・ギャムソの4人でNABIL谷を遡行しHAPTAL氷河との合流点あたりまで往復することとした。同テント地泊

MULLUNG氷河 舌端

14日
阪本(L)が朝食を作ってくれ、いつもより早く出発する。昨日撤退した難所を越え ROCK BRIDGE手前の所からMULUNG氷河の北西奥が見えたので写真に収める。P5949m(M19)のあたりか?ROCK BRIDGE は狭いゴルジュの間に巨岩が詰まってできた立派な自然の橋であった。谷の真正面(南)にP5602m(M7)が聳えており、地形的に見て間違いない。このあたり、谷は緩やかで橋から2時間ほどの左岸にヤクの放牧地があり、立派な石室も作られていた。それにしてもヤクはどの道から来るのか?皆目判らない。さらに1時間半程度で HAPTAL氷河との合流点が目の前にある地点に出た。ここが本日の最高地点(4480m)となる。
沢はここからKANTHANG氷河と名前を変える。これを少し遡り、西(右)に回り込んだところが UMASI LA である。 KANTHANG氷河の稜線上に槍の穂先のようなP5680m(M8)が見える。HAPTAL氷河は舌端から合流点までが200m近い滝となっており、その周りも絶壁となっている。この登攀が難しい上に、NABIL谷本流の渡渉が我々の実力では不可能とみた。P5602m(M7)から続くHAPTAL氷河の稜線の奥にP5878m(H21)が見える。まさに剣を大きくしたような威容である。
帰途HAPTAL氷河の下の谷奥に台形の高い山が見えたが、P5910m(H11)だろうか、P5980m(M6)だろうか。判然とはしない。
ROCK BRIDGE で馬方のギャツオが暖かい飲み物を持参してくれており大休止。
テント着は15時であった。
同テント泊

P5602m(M7) HAPTAL氷河を挟みH21(左)とM7(右)
P5680m(M8)
P5878m(H21)

15日 GAURAテント地-SAMPUK新テント地
NABIL谷上流での予定がなくなったので、今後の日程の再調整をする。
往路で一日ほど下った所に快適なサイトを見つけておいたので、そこで数泊、さらにパダム-カルギル間のRANGDUMあたりでの一泊追加を提案した。
今日はゆっくりとSAMPUK上の新しいサイトに向かう。
モレーンの小山から綺麗な水が湧き出し、すぐに伏流となって消えている。一般のルートから少し離れているので、ここに水があるとは気づきにくい。同行の土地の人間も初めての場所とのことであった。テントサイトはできるだけ快適な所を選びたい。まず洪水・落石から安全であることを前提に、湧水や清流があること、周りが開けており乾燥した砂地が乾燥した砂地か草地であればベスト。往復する場合は必ず帰途のテント地の目途をつけておくことにしている。往きにこの辺りでキツネのような小動物が飛び出し、ヤンペル・伊藤が追いかけて湧水を見つけた。偶然の賜物である。テントのすぐ横は、多数の馬をグレージング可能な草地もある広大な理想的なサイトであった。

テント地
テント地
伊藤・阪本・馬方

16日
前日に、対岸へ渡れる自然のROCK BRIDGE があることをヤンペルが見つけておいてくれたので、谷口と伊藤は対岸の高みに、ヤンペルとギャムソは左岸をJHUNKUL GOMPAに行き、パダムのホテルなどの再調整を行うこととした。
NABIL谷からJHUNKUL間の右岸には顕著な沢が3本ある。ここから1本目の谷が対面によく見える。P5465mを確認した。その奥にP5768m(M5)があるはずだが、特定はできない。2本目はSAMPUKのテント地のすぐ下の沢で、奥にP5856m(M3)があるが特定できない。3本目のCHHABAR谷は滝の上がコルジュになっており上部は覗けない。
同テント地泊

P5465m

17日
馬方は湧水口の小池に水受けを作り水際に小灌木を植えた。実は食べられる。いつか来る人への心遣いである。馬方やキッチンスタッフはキク科と沈丁花科の香草を採取し乾燥させている。仏前で煙を立てお祈りをするという。土産用の箒も作っていた。馬方のテントで色々話を聞く。持ち主の判らないヤクの子供3頭が馬の後ろをついてまわっている。皆思い思いのんびりした一日。水場に植えられた小潅木はスグリ科のRIBESに近いものと並河治(ボケさん)に同定頂いた。
同テント地泊。

水場を整備
小灌木(スグリ科)を植える
香草(キク科)
香草(キク科)
香草(ジンチョウゲ科)

18日
SUMPUKキャンプ地-JHUNKULテント地
他によいテント地がなく、往きと同じサイトに幕営。

19日
JHUNKULテント地-PADUM
TOKHTAの橋のところで馬たちと別れPADUMに向かう。往きにも観察したがこの辺りにバッタの大発生を見る。トノサマバッタに類似しているがLOCUSTと呼ばれる種類で地上数百mまで飛んで移動するという。

LOCUST

20日
PADUM-SHAKAR RANGDUM テント地
このルートでLEHに戻るのは私には初めてであり興味深い。SHAHATのテント地は湿地のようなところであり、水場にはゴミが散乱している。そのすぐ手前に理想的なサイトがあり幕営。
SURU川を隔ててすぐ対岸に高度差1000m以上の岩壁が聳えており、最近は日本からも挑戦者が来ているという。KUN方面も望め大きく開けた景色の良いところであった。

大岩壁

21日 RANGDUMテント地-KARGIL
NUN(7135m)からの氷河がSURU川まで押し出しているPARKACHIKの村を過ぎたあたりで、帰りは左岸を取る。道はやや遠回りとなるが、眼下に美しい村落が拡がり、初めてKUN(7077m)の勇姿を見た。右岸の道からは見えない。斜面には大規模にポプラが植林されている。

KUN
PARKACHIK村

22日 KARGIL-SUMDAHDO
今日の幕営地はINDUS川からZANSKAR川に少し遡ったところである。
この先のCHILLINGに泊まりMARKHA谷を散策予定であったが、MARKHAへの橋が洪水で流され人力の滑車となっている。時間が掛かりすぎるのと危険なので諦めた。この洪水は2010年のこの地方一帯の大雨によるものではなく、上流のTSARAP CHU(2009年に歩いたあたり)で自然のダムができ、それが決壊したものという。
テント地は麦畑の中で快適。家が2軒ばかりの小さな村落で、麦刈取りの真っ最中であった。今回のコックはネパールの若者で、よく気がつき料理も上手い。タマン族という。

SUMDAHDOテント地

23日 SUMDAHDO-SUMDAH CHUN往復
ヤンペル・伊藤・谷口で最奥の村落 SUMDAH CHUNにあるゴンパにお参りする。キャンプ地からは徒歩で往復7~8時間は掛かるとのこと。途中まで車で行ったが、それでも5時間近くかかり、今までで一番きついゴンパ参りであった。ゴンパには僧はおらず、村人が千年間灯明を守っている。ALCHIと同じ赤帽派。

やっとゴンパが
MARKHAの滑車渡し
特別に拝観

24日 SUMDAHDO-LEH
途中、PHYANに寄り、GURURAKANGで壁画の修復を見て、そのあとPHYANG GAMPAを訪問した。

PHYANG GURURAKANGの壁画

25日 LEH
IMF  LEH支所訪問

26日 LEH-DELHI-成田
IMF HQ 訪問
毎回、欠かさずIMFの本部を訪問することにしている。

ガイドのヤンペル(TSEWANG YANGPHEL)
今年で10年目となった我々のインド訪問は、ガイドのヤンペル抜きでは語れない。
2007年、初めてのザンスカールでガイドとしてついたのが、まだ学生であったヤンペルであった。その後、すべてのラダック・ザンスカールやキナールの旅にガイドをお願いすることになる。
2009年6月に自身の旅行会社HIDDEN HIMALAYAを創設し独立。同じ年の秋、ザンスカールで運命的な出会いとなった日本人女性 サチ(紗智)さんと結婚、我々との絆がさらに深くなった。
阪本はヤンペルの日本での保証人となり、会社の経営もそれとなくアドバイスしている。彼の親のような存在である。我々も心から応援している。
「ヤンペルの祖先はいつ頃チベットからこの地に来たの?」ヤンペルは怪訝な顔をして「我々は元々この地の人間で、この地はチベットの一部でした」
ヤンペルはパダム近くの小さな村に生まれ、レーのチベット難民小学校、ダラムサラの高等学校を経て、デリー大学を出たエリート中のエリートだが、それを微塵も感じさせない朴訥さと愛嬌がある。
レーは大洪水からの復旧が進んでおり、国内便の充実もあって、近年インド国内からの観光客が激増、ホテルの建設ブームとなっている。軌道に乗りつつある HIDDEN HIMALAYAも、将来ホテル経営など考えているのかと尋ねたところ、ホテルには興味はなく、将来は保育所をつくるのが夢と言う。
子供は3人となり、今は家に帰り子供たちと遊ぶのが一番の楽しみである。
レーでの日常は、サチさんのブログに詳しい。http://zanskar555.blog117.fc2.com/

ヤンペル

以上。