2002年10月
中島道郎
厳冬期知床山脈初縦走50周年回顧・記念講演会・記念登山会
羅臼岳懇親登山会
(2002年10月14日)
羅臼岳下山途中、屏風岩の下にて記念撮影
後列左から:佐々木*、椎久*、宮腰*、渡辺*、金澤*、
中列:高村、石田*、湧坂、中島、湧坂夫人*
前列:岩坪、寺本、坂下*、川瀬、斎藤、潮崎、広瀬
(*:地元参加の人々)(敬称略)
遠征隊員名簿。
一同の記念撮影。第一次計画終了時、合泊にて。
計画の概要・第一次計画。
同じく第二次計画。
知床半島概念図。
羅臼から、チャーター船『日の丸』で岬隊ニカリウスに上陸。
本隊は引き返し合泊の子出藤氏宅にベースを置く。
行動日程概念図。
岬隊はニカリウスから稜線を岬に北上,南下して知床岳に、
本隊はカモイウンベ川右岸の尾根から知床岳に至り北上、ポロモイ台地南で合流した。
羅臼町展望台から羅臼岳を望む。
羅臼岳頂上から北方を望む。
正面やや左遠方のギザギザの3峰は硫黄岳、その右更に遠方の白く小さな三角山が知床岳。
羅臼岳頂上岩峰。
稜線右手に隊員が2人登っているのが見える。
(撮影並びにイラスト作成:寺本巌)
厳冬期知床山脈初縦走50周年回顧記念講演会報告
昭和27年12月から翌年正月にかけて、AACKと京大山岳部との共催で厳冬期の知床山脈縦走が行なわれた。そこは、日本に残されていた唯一の人跡未踏の地であった。13日間にわたる気温-30℃・風速20mの吹雪とブッシュとの苦闘の末、この知床岬―知床岳間13kmは踏破された。1日平均1kmの行進であった。
隊員は、隊長:伊藤洋平、副隊長:藤村良、隊員:山口克、杉山喜一、脇坂誠、廣瀬幸治、斎藤惇生、中島道郎、中川潔、平井一正、寺本巖、川瀬裕史の12名、それに毎日新聞から報道担当で北尾正康、依田孝喜の2名が加わった。山行は、藤村・脇坂・中島の3名が知床岬から主稜線を南下するのを、残りの本隊が北上して知床岳の北で合流するという第一次計画に成功したあと、第二次計画として、藤村・山口・斎藤は硫黄岳に、廣瀬・中川・平井・寺本は羅臼岳に登頂し、両計画とも大成功裡に終了した。
あれから50年の歳月が流れた。あの時羅臼の人たちは村中を挙げて支援して下さった。お世話になった方々はもう皆さんこの世におられない。我々の仲間も2人は既に逝き、残ったものも皆既に老境にある。この50周年という節目に、昔羅臼の皆さんに大変お世話になった、その感謝の気持ちを今も持ちつづけているということを、現在の町の皆さんに伝えたく、標記『厳冬期知床山脈初縦走50周年回顧記念講演会・登山会』を計画し、AACK、羅臼町当局、毎日新聞社、北海道新聞社、羅臼山岳会の後援のもと、約80名の参加を得て計画通りすべて無事完了することが出来た。
この山行は山岳部の冬山合宿のひとつであり、特別の名称はない。しかし仲間内で『知床遠征』と呼んでいた。なにしろあの時は、京都から羅臼まで丸3日かかった。3日もあれば今ならエベレスト山麓のタンボチェまで行ける。それは当に遠征の語にふさわしい山行であった。ここでは便宜上『昭和27年京都大学厳冬期知床山脈縦走隊』と呼ぶことにする。
筆者の友人に林育雄氏という北海道本別町に住む篤農家がある。平成14年の年賀状に、今年は知床初縦走から50周年になる、と書いたところ、早速林氏は羅臼町に赴き、何か記念行事をやりませんか、と打診されたらしい。返事に、先方は乗り気でしたよ、とあった。そこで筆者は当時の縦走隊全員に、羅臼町に対するお礼の意味で記念講演会のようなものを催しませんか、と呼びかけた。すると、山口・廣瀬・斎藤・寺本・川瀬の5名はすぐに応じてくれた。川瀬は現在アメリカ・ニュージャージー州に住んでいるが、わざわざ駆けつけてくれた。隊員12名のうち伊藤・脇坂の2名は既に故人となり、杉山・中川は連絡無し、藤村・平井は都合付かず、結局参加隊員は上記5名に筆者の6名となった。
しかしそれをこの6人でやるのは無理だと心配した岩坪五郎君の肝煎りで、酒井敏明・高村泰雄・・潮崎安弘・上尾庄一郎の5君が自弁でサポーターを買って出てくれた。今回のこの催しを成功裡に終えることができたのは、実にこの5君の献身的な支援のお蔭である。
そこで筆者は8月24日、単身羅臼に飛んだ。羅臼町の横岩信子庶務課長・涌坂周一郷土資料室長・渡辺憲爾生活・生活環境課長・宮腰實羅臼山岳会副会長の4人とお会いすることが出来、計画は実現へ向かってその第一歩を踏み出した。そして行事の開催日は02年10月13−14日の連休と決まった。
その概要を以下に記す。
厳冬期知床山脈初縦走50周年回顧・感謝講演会・記念登山会
主催:昭和27年京都大学厳冬期知床山脈初縦走隊
後援:羅臼町、羅臼山岳会、毎日新聞社、北海道新聞社
会場:羅臼小学校多目的ホール。
10月13日(日)
[講演会] 『知床からヒマラヤへ』(司会進行:潮崎安弘)
10:00-12:30
第一部『知床から』(知床初縦走の思い出)
開会の辞:中島道郎
挨拶:羅臼町長 辻中義一氏
登山隊から羅臼町へ記念品贈呈:山口 克
講演:知床連山の登山史:涌坂周一
初縦走までの概略:廣瀬幸治
知床岬−知床岳縦走隊:中島道郎
ビデオ:「ヒマラヤへの道」
休憩・昼食
13:30-16:00
第二部『ヒマラヤへ』(知床以後の京大山岳部のあゆみ)
スライド説明:本登山隊の行動全容: 寺本巖(添付写真)
講演:ヒマラヤの西と東;斎藤惇生
高所登山医学入門;中島道郎
(高所に登れば人間の身体はどうなるか)
質疑応答
閉会ご挨拶:中島道郎
講演会の後、ホテル『峰の湯』にて懇親会を開催した。登山隊が一番お世話になった誘諦寺の西井誘誠師のお孫さんとか、日本山岳会北海道支部長新妻徹氏など、非常に多くの参加を得て、大変和やかであった。
10月14日
羅臼岳懇親山行
羅臼山岳会員の皆さんに案内して頂いて,我々のほかに地元羅臼町はじめ道東各地からの参加者を加えた合計16名が日帰り登山を敢行した。
『峰の湯』出発05:00。岩尾別06:05登山開始。始めは晴天であったが、銀冷水を09:30に通過する頃から雲が湧き出し、羅臼平11:00は雲の中。山頂12:00。山頂付近は風がきつく相当寒かった。山頂で一瞬雲が切れ、ブロッケン現象を見た人もいた。屏風岩で全員集合して記念撮影(添付写真)をしてから後は、降りのピッチにかなりの乱れが出始め、次第にその差が開いていって、結局『峰の湯』には速い者は18:00、遅い者は21:40という大差がついたが、とにかく全員無事に帰着することが出来た。これは羅臼山岳会の皆さんの献身的なサポートのお蔭である。
10月15日
知床センチメンタルジャーニー(2組に分かれて行動。以下は筆者の組の行動)
郷土資料館見学、知円別に子出藤(ねでふじ)さんの息子さんを訪ね、当時の子出藤さん夫妻の写真を手渡す。相泊まで行き、嘗ての相泊温泉小屋の所在地を探したところ、海岸に剥き出しの木槽に張られた湯があり、これがそれと分かったが、あまりの様変りに暫し呆然とした。引き返し、誘諦寺の裏の展望台に登り、国後島、羅臼岳、硫黄岳などを眺め、知床峠を越えてウトロ側に降り、カムイワッカの滝を見て、ウトロの『知床グランドホテル』に泊った。
10月16日
ウトロから秋色濃い原生花園を見物したのち、女満別空港から帰洛。
別組はこの日車で小樽までドライブ、翌日フェリー船内泊、18日に帰洛した。