アフリカ縦断の旅
第3部

田中二郎

 1966年以来、40年間通いつづけたアフリカ大陸を縦断するのは、長年の夢であった。人類学の研究のためには、ひとつの村なり町なりに住み込み、長期間じっくりと腰を落ち着けて、人々の生活環境、社会のなりたち、人間関係、行動様式、世界観、自然観、呪術宗教、風俗習慣などなどを観察し、人々の中に溶け込んで、異文化を理解することが必須である。ある地点に照準を合わせ、対象社会の全体像を把握し、これを自文化およびその他の文化と比較することにより、人間理解を目指そうとする。したがって、長年アフリカに通い詰めても、行き先はどうしても狭い点に絞られてしまうのである。私は主としてカラハリ砂漠のブッシュマン(サン)を研究対象とし、70年代には、ケニア北部の遊牧民、トゥルカナ、レンディーレ、ポコットを調査研究の対象としてきた。比較のためにコンゴのピグミー、タンガニイカ湖畔のチンパンジーと焼畑農耕民トングウェ、ザンビア北部の焼畑農耕民ベンバ、マリ共和国のドゴン、モロッコのアラブの都市を訪れたが、これらはいずれも短期間の定点観測にすぎなかった。
 このたびの縦断計画の実現は、笹谷哲也べべさんの誘いによるものであった。「おい、ジロー、アフリカ縦断をやらへんか」と言い出したのは一昨年の秋のことだったと思う。私は即座に「よっしゃ、行こう」と返答した。

<第2部はこちら>

チンパンジーの森、マハレ国立公園
 明けて10月10日、モロゴロからアルーシャまでの630キロをひた走りに飛ばし、予定通りマハレ国立公園へ行く11日のチヤーター便に無事間に合わせることができた。アルーシャの手前のモシの町からは、晴れていればキリマンジャロが真正面に見えるはずなのだが、あいにくの曇り空で、なだらかな裾野の部分がぼんやりと見えるだけであった。チャーター機が出発する前の朝一番に、車をトヨタのディーラーに持っていって、オイル交換をはじめ各部の総点検を依頼した。点検整備はナミビアのスワコップムント以来で、途中カラハリのニューカデでは、藤岡君と2人でオイル交換だけは行っていた。
 われわれ8人と操縦士で満杯となった軽飛行機は、一直線にタンガニイカ湖を目指し、ノンストップでたっぷり3時間かかって浜辺につくられた滑走路にスムーズに着陸した。操縦士が無線でマハレのキャンプに連絡を取り、迎えの船がまもなくやってくるというので、待ち時間の合間にホテルで用意してもらったランチボックスを開いて昼食とする。1時間以上は待たされたであろう。ようやく迎えの船が到着する。京大隊が使っているカシハの浜から1キロほど離れた南隣の浜にある私設のテンテッド・ロッジに無事に到着した。ヒコーキ便の関係で、私たちはここに4泊し、チンパンジーを追って山を巡り、釣竿を片手に湖に遊んだ。
 伊谷純一郎さんの指導の下、西田利貞さんがここでチンパンジーの餌付けに成功したのは1966年のことであった。以来40年、多数の若い人たちがこの森に分け入り、チンパンジーの生態、社会、行動、群れ間の関係をつぶさに観察し、多くの新発見をもたらしてきた。いまちょうど西田さんが、若手研究者の中村美知夫君、伊藤詞子さんなどとともに調査に入っていた。私たちは、翌12日、朝食を済ませるとすぐ山に向かって出発した。遠くに鳴き声が聞こえたので、だいたいの位置は分かると言う。20分ほどだらだらした麓の道をたどると京大隊の基地があるカンシアナ谷に至り、だんだんと急になっていく斜面をそれとおぼしき方角に進路をとる。群れの遊動範囲には縦横に観察路が切り開かれていて、ガイドの2人が相談しながら道を選んでいく。上方でチンパンジーの呼び交わす声が私たちにも聞こえるようになった。最後は道を逸れ、ブッシュをかき分けて急峻な谷筋を詰めあがり、右手にようやくその姿を見出した。4,5頭のオス、メスがくつろいでいて、コドモが母親のまわりで遊んでいる。向こう側のブッシュの陰には西田さんが座り込んで、双眼鏡で彼らの行動をつぶさに観察し、ノートにとっている。彼の言うには、カンシアナの基地から真っ直ぐ上へ30分ぐらいでここまで着いたらしい。われわれのガイドはよく知らないから、結局ずいぶん遠回りして1時間以上かかり、すっかりくたびれてしまった。しばらくチンパンジーの様子を眺めていたら、リーダーオスを追跡していた伊藤さんがリーダーを追ってきてわれわれに合流する。お昼に近づいたので、お弁当持参の西田さんたちを残し、われわれは引き返すことにする。なるほど西田さんに教えられた道を行くと、ほぼ一直線にカンシアナの基地まで一気に下ることができた。
 午後は船を出して釣りに行かないか、とのロッジ・マネージャーの提案にしたがい、20分ほど南へ下って釣り糸をたれる。私たちは持参のリール竿で疑似餌のスプーンを投げるが、一緒に来てくれた2人の男は、手釣り用の仕掛けを用意する。先端にかなり大きな錘をつけて、3本ばかり針をつける。餌も何もつけず、素針で糸を上下させ、まず餌にするためのダガーを釣り上げる。ダガーとはタンガニイカ湖特産の鰯の一種で、夜間灯りをつけてダガーをおびき寄せ、大きな網ですくい獲ったものを天日で干すとまさにダシジャコである。煮物をおかずにするが、市場価値も高い。剃刀でダガーの身を切り取って、こんどはそれを餌にして水中に沈める。何匹かの魚を釣り上げたが、1匹は60センチぐらいもあるクーヘであった。スズキの仲間で煮ても焼いても美味しいが、なんといってもこの魚は刺身にしてわさび醤油で食べるのが最高である。
 マネージャーも歓迎するというので、夕食には西田さんたちを招待する。ロッジの使用人が釣ったクーヘを貰い、キッチンを借りて、調理する。べべさんは山登りで大分お疲れのようだったので、きょうは憲子がさばいてお造りにする。スープから始まるキャンプの晩御飯は、豪勢で、そしてまた、クーヘの刺身もすばらしかった。
 チンパンジーの群れがときに浜辺まで出てくることがある。そろそろやってきてもよいころだというが、私たちの滞在中には来なかった。ヒヒは近くまでやってきたし、イボイノシシが数頭、食堂のすぐ脇の砂の上で寝転んでいった。3日目の13日に、もう一度チンパンジーを見たいと森へ出かけたが、これは空振りに終わった。西田さんたちもずっと奥の方へ追いかけていったようである。
 マネージャーはイタリア人なので、是非スパゲッティをアルデンテに仕上げてくれと懇請する。南ア以来なんどかパスタを試してきたが、どこで食べたものもグチャグチャのものばかりだったのである。この日の昼食は最高傑作のひとつだったといってよいだろう。マネージャー自ら台所に立って、パスタを茹でてくれたのにちがいない。アフリカへ来て初めて食べたアルデンテであった。
 次の日は昼食後、猛烈なシャワーに見舞われた。ちょうど食べ終わったときに降り始め、とても自分たちのテントまで戻れない。食堂の建物は古くなって、ちょうど建て替えようとしていたところであったが、古い屋根は雨漏りだらけ、みんな雨の当たらない部分に避難して、雨の過ぎ去るのを待った。10月半ばはそろそろ雨季の到来する季節である

アルーシャまでの街道筋では、道端にトマトと玉ネギ、ジャガイモなどが並べて売られている。(撮影:藤岡悠一郎)
タンガニイカ湖の浜辺に作られた滑走路からカソゲ基地近くのンクングウェ・キャンプまで船外機付のボートで小一時間。(撮影:藤岡悠一郎)
ンクングウェの浜に作られたテンテッド・ロッジ。中央に食堂があるが、古くなって雨漏りが著しい。イボイノシシの親子が訪ねてきて、よく前の砂浜で昼寝をしていった。(撮影:笹谷哲也)
森の中で出会ったチンパンジーの子供。人間もサルも動物も子供はかわいらしい。(撮影:藤岡悠一郎)
チンパンジーの住む森からタンガニイカ湖岸を見下ろす。北方は樹木が少なく、小村が点在していて畑づくりがおこなわれている。(撮影:笹谷哲也)

ンゴロンゴロからセレンゲッティへ
 10月15日、帰りのヒコーキも順調に飛行し、アルーシャのマウント・メルー・ホテルに無事帰着した。整備の終わった車は、ホテルの地下の駐車場にちゃんと仕舞ってくれてあった。ショック・アブソーバーが4本いかれていたが、ザンビアのセナンガまでの悪路、そして、あのバンプの多かったアルーシャまでの道を考えれば、サスペンションに無理がかかるのもいたし方がないだろう。
アルーシャからンゴロンゴロまでは、きれいに舗装され、190キロの道のりを2時間あまりで走破することができた。ンゴロンゴロは大きなクレーターになっており、300メートルほど下の火口湖まで反時計回りに降りていくが、道路は狭く、砂利道である。ゆっくりと下まで降りると、平らで草原となっている湖底にさまざまな動物が見かけられる。中心部には水を湛えた池があり、水辺がピクニック・サイトになっている。ちょうど時間もよし、私たちもランチボックスを開くことにする。エジプシャングースをはじめ、たくさんの水鳥が遊んでいるが、気をつけなければならないのがトンビである。上空に輪を描いて獲物を狙っているが、ここで彼らの好餌食となっているのは、何百人もの人々が広げているお弁当やお菓子だった。
 草原の中に、私たちはチーターが何頭か座り込んで休んでいるのを見かける。車を止めて双眼鏡で観察していると、うしろから来る車もみな停まって眺めている。ライオン、豹、チーターなど、見つけにくい肉食獣を見るには、車が群がって停まっている所へ行ってみるのが、最も確実な方法である。クレーターの湖底から崖の急な登りに差し掛かる直前の小さな川に車1台通れるだけの狭い橋が架かっているのだが、そこに両側からきた車の群れがたまって渋滞している。橋のたもとのアカシアの木の上に豹が休んでいるというのだ。私たちのいる角度からは豹は見えなかったので、ただいらいらしながら、小一時間渋滞が解消するのを待つばかりであった。
 クレーターの登りは大変な悪路であった。急な岩のごつごつとした斜面を四駆でゆっくりと登っていかなければならない。1週道路を経て、メインロードにもどってから、いよいよセレンゲッティへの道となるが、舗装が切れたあとの道は、ものすごい洗濯板道路であった。道幅はたっぷりとあり、年に何度かはブルドーザーで均しているという。ならした直後は走りやすいが、たちまち凸凹ができはじめ、それがどんどんひどくなって波が大きくなり、洗濯板になってしまう。こうした道路は時速60キロ以上のスピードで凸の山の上っ面を飛んでいくように走るのがコツであるが、いずれにせよ車が受けるショックはすさまじく、当然乗っている人間様もつらい思いをする。洗濯板のメインロードから左へ分岐し、20数キロ草原の中を走って、薄暗くなったころ、ようやくサファリ・ロッジに到着した。すでにセレンゲッティ国立公園に隣接したところだった。
 翌日は、公園のゲートに向かって一直線に北上し、ゲートのすぐ手前のメイン道路に合流する。ここから少し戻ったところに、2百万年前の初期人類の化石、オーストラロピテクスが出土したオルドバイ渓谷があるのだが、この洗濯板道路を往復する気力も失せ、そのままゲートをくぐってセレンゲッティの中へ進入した。公園の中は制限速度が60キロ以下と決められているお陰で、道は比較的スムーズだった。公園の中心地にあたるセロネラに達し、そこから今夜の宿泊場所であるロボ・ロッジへと真北に進む。ロッジは小高くなった岩山の上にあり、天然の大岩を巧みに取り入れて、うまく設計されたゴージャスな建物であった。建物のまわりの岩の上にはいたるところにロック・ハイラックスがうろちょろと駆けまわったり、くつろいだりしていた。
 ズッパ号のルーフキャリアはここに来てついに修復不能に破壊し、重いタイヤを積んだままいつずり落ちて吹っ飛んでもおかしくない状態になっていた。ほとんどのボルトは抜け落ち、キャリアが天井にじかに乗っかっていて、前後左右に荷閉めベルトでなんとか支えているだけという有様であった。天井の荷物を降ろしてなんとか2台の車に押し込み、ルーフキャリアはここで捨てていくことにする。一旦すべての荷物を降ろし、きっちりと積み直しをしていたら、プラスチックの箱に詰めてあった食料品のうち、コショウのビンが割れて、箱の中がコショウまみれになっているのを発見した。このガタガタ道路では、車も荷物も何とか持ちこたえてくれている方が不思議なくらいである。ジロー号のルーフキャリアの方は、早目からこまめにボルト締めしながら走ってきたので、まだなんとか持ちこたえてくれそうである。
 翌18日、今日の宿泊地セロネラへ戻る途中で、ハゲワシが何羽も舞っているのを見かけ、徐行して注意しながら近づいていく。いた、いた。ライオンの一群(プライドと呼ぶ)が木陰で休息をしているのである。メスが2頭、それにまだ小さなコドモが4、5頭、母親たちのまわりでじゃれあっている。オスはどこか近くにいるのだろうか、目にすることはできなかった。獲物の肉はほとんど食い尽くされて、ハゲワシはこれを狙って近くへ寄ってきていたのである。ライオンたちはもうお腹が一杯なのであろう、食後のひとときをゆっくりと過ごしている。セロネラまでもう少しという川岸には、カバが陸地に上がってきて歩いていた。カバは夜になってから草原の草を食べに上がってくる動物で、昼間は普通なら水の中にもぐっているものである。これは珍しい光景であった。
 当初私たちは、ロボ・ロッジのそばを通って、真っ直ぐ北上し、ケニアへの国境を越えて、マサイマラ国立公園のキーコロック・ロッジへ向かう予定をしていた。ところが今は、この国境は閉鎖されていて、ビクトリア湖の近くまで一旦西進し、国境を越えたのち今度は東へ国境沿いに戻ってマサイマラの西口から入らざるをえないことが分かった。ものすごい遠まわりである。しかし、この道を通ったおかげでキーコロックまでの中間のかなり大きな川を渡るとき、橋の上から大きなワニが昼寝している姿を見る機会をえた。この時期、セレンゲッティとマサイマラを季節移動する百万頭を超えるといわれるヌー(ウシカモシカ)の大群がこちら側に移ってきていて、私たちはこの黒々とした動物の塊をうんざりするほど眺めつつ、キーコロック・ロッジに到着した。
 キーコロックからナイロビまでは、ナロックを経由して、ナクルからの幹線道路に入り、一気に駆け抜けることができるはずだった。しかし、ナロックから幹線道路までの舗装は劣悪なもので、穴ぼこだらけ、それが補修されてないから、これなら砂利道の方がよっぽど走りやすいというものだ。悪名高いケニアの道路事情である。それでも私たちは、予定通り10月20日、無事ナイロビにたどりついて、フェアビュー・ホテルにチェックインした。

セレンゲッティ国立公園のヌーの群れの中を突き進む。(撮影:藤岡悠一郎)

ケニア北部への旅
 ここナイロビには住商の駐在員事務所があり、ズッパさんはいざ何か重大なトラブルがあった場合に備えて会社へ旅程表を置いてこられていた。ところが、それは最終案ではなく、少し日程の違った最終前のものだったのである。この間違った旅程表が本社からヨハネスバーグとナイロビにファックスで送られており、えらいご迷惑をおかけする結果となってしまった。ナイロビの事務所長冨田和雄さんが途中の滞在先であるはずのところへ、何ヶ所か電話連絡をされたのだが、一向に私たちの行方がつかめなかったということである。野村高史元福社長がアフリカ旅行中に行方不明になったと、住商本社ではずいぶん心配され、幹部周辺で大騒ぎしておられたらしいのである。ナイロビに到着して、ズッパさんはいち早く所長の冨田さんに電話されて、事態は収束した。
 それにひきかえ、わが隊の留守本部ケロさんは、社長業が忙しすぎて、電話をしても常に留守電になっており連絡さえつけることができず、留守本部としての役割はまったく果たしてもらえなかった。明らかな人選ミスだったといわざるをえない。
 ナイロビはアフリカへの玄関口にあたるので、研究者たちもここを通過して、それぞれのフィールドへ向かう人が多い。日本学術振興会のアフリカ研究センターが、もう40年近く前からここに事務所を置き、研究者を交代に派遣してきた。私自身も1974年から75年にかけて半年間家族とともに駐在したことがある。いまは京大アフリカセンターの研修員、波佐間逸博君がセンターの維持管理と研究者の便宜のため駐在している。3年前からは、京大アフリカセンターも、東アフリカ研究の拠点としてここにフィールドステーションの事務所を設置し、ケニア、タンザニア、ウガンダで研究する人たちがナイロビに立ち寄ったときの宿泊所兼研究室となっている。今この事務所には博士号を得たばかりの孫暁剛君が常駐していて、これから行く北ケニアの旅に同行することになっている。
 ここにはまた、AACK会員で私の1学年下の杉山隆彦スリコさんが、JICAのスタッフとして在住している。彼は、タンザニアのタンガ中学の教師を経て、モロゴロのソコイネ農科大学で農芸化学の講師を長年務めたあと、ナイロビ北郊にあるジョモ・ケニヤッタ農工大学創設の中心人物として長らく教鞭をとり、いまはケニアの教育環境整備のために忙しく立ち働いている。
 ナイロビに2泊してゆっくり休養をとったあと、孫君を含めた私たち9名は一路北を目指して出発した。10月22日であった。ナイロビ市内の韓国料理店で食あたりし、体調をくずした私に代わって、この旅では孫君がハンドルを握ってくれ、私は久し振りに助手席でくつろぐことができ、大助かりであった。初日はアバデレ山国立公園の入り口にある町ニエリのアウトスパン・ホテルに投宿し、翌日はケニア山の登山口にあたるナロモル・リバー・ロッジのキッチン付コテージに移動した。山麓の渓流には、イギリスの植民地時代に放流されたニジマスやブラウン・トラウトが自己繁殖していて、絶好のマス釣り場がたくさんある。私たちは釣りを楽しみ、鱒の塩焼きを期待していたのだが、残念ながらこのところケニア山の上部にかなりの降雨があり、河川が増水していて釣ることはできなかった。
 10月24日、ナニュキの町外れで赤道を越えるので、看板の下で記念撮影をする。ついに北半球に入り、ケニア山麓の海抜約2千メートルのハイランドから5百メートルのイシオロまで、一気に急坂を下りきる。肌寒かった高地から低地サヴァンナの叢原へ、灼熱の半砂漠へと気候もまた急変する。イシオロから先はいよいよ遊牧民、サンブル、レンディーレ、トゥルカナなど遊牧民の世界である。

ケニア山の麓ナニュキの町はずれの赤道地点でしばし休憩をとる。南緯35度のケープ・アグラスから、ついに赤道を越えて北半球にはいる。(撮影:藤岡悠一郎)

車のトラブルで旅程の変更
 イシオロの町外れにはポリス・チェックがある。ここから北へエチオピアまで、そして東へはソマリアまでの道は、無人地帯が延々と広がっており、ときに強盗団が出没したり、盗難車の密輸出が行われたりするので、しっかりと車のナンバーを控えてチェックしている。町をはずれると舗装はなくなり、たちまち洗濯板道路に変貌する。サンブル国立公園を左手に見て、アーチャーズポストを過ぎたところで、うしろからついてきていたズッパ号が停車し、無線が入る。車体の下で異音がするので点検するという。Uターンして駆けつけてみると、ショック・アブソーバーの上部のネジがはずれて下向きにぶらさがり、地面を引きずってガーッと音を立てていたらしい。ショック・アブソーバーなしでこれから5日間の悪路を行くことは不可能だ。いつスプリングが折れるか分かったものではないからである。
 イシオロまで引き返し、真っ直ぐガレージに飛び込んで、新品のショック・アブソーバーに交換してもらう。再びポリス・チェックを通るが、今度は孫君がスワヒリ語で状況説明しただけでフリーパスで通過する。ところが、なにほどかも行かないうちに、またもや交換したばかりのショック・アブソーバーの上部がはずれてしまった。自分たちでなんとか修繕しようとするが、どうしてもうまくいかない。もう一度引き返してガレージで付け直してもらい再々出発、しかし、10数キロも行かないうちに、同じトラブルが発生した。上部のボルトを車体の穴に入れてナットで止めているのだが、あいだにかませてあるワッシャーが小さすぎて、洗濯板の凸凹でがたがた弾んでいるうちに、穴から抜け出し、外側へはずれてしまうようである。停車したまま、なんとか修復できないか試みてみるが、やはり引き返して大きめのワッシャーに付け替えてもらうより仕方がないようである。悪いことは重なるもので、ちょうどそこへ対向してきたトラックの跳ねた石がジロー号の運転席側の窓ガラスにぶつかり、見事にヒビだらけになってしまった。触るとばらばらと崩れ落ち、怪我をしないように破片を全部とりのぞく。ポリス・チェックのお巡りさんたちも、さすがに何度も修理に戻ってくる私たちを気の毒がってくれた。
 ショック・アブソーバーはワッシャーを取り替えることでなんとか落ち着いたようだが、窓ガラスはイシオロには在庫がなく、ナニュキかケニア山の東麓の町メルーまで行かなければ手に入らないという。距離の近いメルーへ行くことにする。ガラス屋の前の泥道に駐車したまま、店員が小1時間かかって新しいガラスを入れてくれた。昼を過ぎ、お腹がすいたので、道端で売っている食べ物を買い込み、走りながら昼食とした。孫君と私が運転を交代し、かわるがわる食事をしながらイシオロに戻ってきたが、時刻はすでに2時を過ぎていた。とても今日中には孫君の調査地であるレンディーレの村までは行き着くことはできないので、今日はイシオロ泊まりとする。
 町で一番上等といわれるボーメン・ホテルに入るが、部屋は狭く小さな廊下に面した窓が1つあるだけの牢獄のような部屋だった。みんなで今後の予定を相談する。カイスト砂漠でラクダを遊牧するレンディーレを見て、さらに北西へ、トゥルカナ湖畔のオアシス、ロイヤンガラーニのオアシス・ロッジで2泊休息してから南下してナイロビへ帰着、このたびの旅行を終える予定だったのだが、人間も車も悪路の長旅で疲労困憊の有様である。若者たちは疲れを知らず、なんとしても予定通り強行したがったが、べべ夫妻、ズッパ、私と60歳をはるかに超えた老人には、このあたりが限界と判断し、予定を変更して、も少し楽な行程を行くことにする。

最北地点のマララルにて、ラクダに試乗して悦に入ってる若者3人。左から藤岡、村尾、丸山。(撮影:孫暁剛)

アバデレ国立公園からマララルへ
 植民地時代からあるサファリの基地、ニエリのアウトスパン・ホテルまで引き返してここで2泊休むことにする。中1日をのんびりと過ごし、午後のアバデレ・ツアーを予約する。若き日のエリザベス女王が宿泊した山腹のトゥリートップ・ホテルまでまずバスで送られる。古い木造り建物の3階ベランダの広々としたスペースから、巨象が水場に遊ぶ姿を見下ろしながら、コーヒーを飲んで一服する。
 2台のサファリ・カーに分乗し、アバデレの山道を見物してまわる。標高が2千数百メートルあるので、植生はモンテンフォーレストのゾーンで、高木の優占樹種はビャクシンとマキの仲間である。繁みが深いので、動物は窪地の草原でしかなかなか見られない。曲がりくねった道が森を縫ってそうした草原のビューポイントを順繰りにたどっていく。イボイノシシやインパラ、ブッシュバックの群れが草原には散見され、ときにはブッシュをかき分けて木の葉を食む大きな象の群れを見かけることもある。緑色のきれいな中型の鳥、エボシドリが1羽、木の上に止まっていた。車を停めると、鳥はすぐ飛び立ったが、広げた翼の下面は鮮やかな緋色で、アフリカではもっとも美しい鳥の1つである。
 最高地点の草原の展望台にはいくつかのベンチが置いてあるが、寒くてゆっくり休んでいることもできなかった。ぽつりぽつりと雨が当たってきて、下りは立ち上がって見晴らすために開けていた天窓を閉めきり、帰りを急いだ。
 10月27日、ニエリから北西に進路をとり、ニャフルルまでまずまずの舗装道路を順調に走り抜ける。まもなく舗装はなくなり、砂利道となるが、それほどひどい道ではない。北緯1度を少し越えたマララルが、変更した今回の最北の地点である。丘の中腹の古い丸木小屋のロッジに2泊し、ゆっくりと高地の草原と畑を見渡して旅の疲れを癒した。ロッジのまわりには、シマウマとインパラとイボイノシシ、サヴァンナモンキーが多数草を食んでおり、はるか彼方に見える向かいの丘陵地帯には農耕、牧畜を営むサンブル族の家々とトウモロコシ畑が見晴らせた。
 翌日は朝のうちに町の市場までビーズ細工などを買いに出かけた。サンブルの若者は男も女も無類のおしゃれ好きである。年齢階梯制をもつ社会であり、男は割礼を受け、成人式を終えるとモラン(戦士)の階梯に属するようになり、長髪を真っ赤に染めてきれいに編み上げ、からだ中にも赤い顔料を塗りこめる。赤白のチェックの腰巻を巻きつけ、長い槍を手にすると、これが戦士の正装である。女性は恋人のモランからたくさんのビーズ細工の首飾りをプレゼントされ、やはり真っ赤に顔料を塗りこめたからだに、あるだけの首飾りをかけて飾りたてる。若者たちのこうした扮装と天に向かって一斉にジャンプする踊りは観光客のカメラの格好の対象となっており、いまや彼ら若者たちのよき収入源ともなっているのである。午後は私たちはロッジで休んで過ごしたが、元気な若者たちは、一度ラクダに乗ってみたいと、キャメル・ライドのツアーへと出かけていった。

ナクル湖のサイとフラミンゴ、そして旅の終わりに
 帰りは、マララルから40キロばかり元来た道を南下したのち、西へと進路を変え、バリンゴ湖を目指した。このあたりは、イルチャムス、そしてポコットが遊牧生活をする領域である。もうすぐバリンゴ湖へ着くという直前に、ズッパ号からまたまた緊急の無線が入った。今度は車体の下の方で金属的な音がするというのだ。急遽Uターンして一緒に下まわりを点検する。左側後輪の板バネが1枚折れていた。7枚のうち下から3枚目であった。折れた切れ端がカチャカチャと金属音を発していたのである。応急処理としては、ガムテープなどでぐるぐる巻きに縛っておくぐらいしか手はない。もう少しでメインロードに出るので、とりあえずはゆっくりと走ってこれ以上のダメージを与えないようにするしかない。
 バリンゴ湖からナクルへ南へと走る道路は、モイ前大統領の地元なので、彼が大統領に就任するやいなや、いち早く舗装工事が行われた。しかし、当初立派な舗装道路と思われたこの道は、いまや穴ぼこだらけのひどいものに変貌している。10センチから15センチの厚みで敷き詰めるべきアスファルトが、ここではほんの2センチばかりしか敷かれていない。工事予算の大部分を高級官僚など1部の人たちが着服してしまった結果にちがいないのである。
 ナイロビに帰着する前の最後の日は、ナクル湖国立公園で過ごすことにしていた。いままでに見ることができなかったサイとフラミンゴを見るためである。よほど運がよければ豹に出くわすこともできるであろう。午後にナクルに着いた私たちは、半時計まわりにそれほど大きくもない湖をまわり、湖岸に車を置いて、フラミンゴの大群でピンクに染まった湖面にしばし眺めいった。湖の南端をまわり、ロッジに向かう途中の草原では待望のサイを見ることができた。大きなサイが2頭、のんびりとくつろいでいた。豹はやっぱり見ることができなかったが、私たちは、アフリカの代表的な動物をほぼカバーし尽くしたことになる。
レイク・ナクル・ロッジの豪華なたたずまいの中で夕方のひとときを過ごし、サファリの最後の夜のために、冷たいビールで乾杯した。このロッジの夕食はバイキング形式で、どの料理もとても美味しかった。食後はいつものようにバーにたむろし、ウイスキーの水割りを嘗めつつ、残り少ないアフリカ滞在を惜しんだ。
 翌10月30日朝、目前に広がる草原と湖面を見下ろしながら、ロッジを出発する。最後のアフリカのドライブ。ナイバシャまでの70キロほどは悪名高い穴ぼこだらけのでこぼこの舗装だが、残り80キロばかりは素晴らしいきれいな道である。10時ごろにはナイロビの町に帰着した。荷物を整理するため、学振の波佐間君のところへ直接乗りつける。
 レンタカーとともに借りた装備と自分たちの個人の荷物を除いて、マットレスなど多少の装備と食糧、飲料をすべて放出し、学振のオフィスに寄贈した。孫君をはじめ、ここに立ち寄る研究者の方々に多少の役に立つものがあれば幸いである。ホテルへの道すがら、孫君のオフィスの前を通って、定期的に開かれる露天市へ立ち寄り、べべさんや憲子たちが欲しがっていたサイザル麻の籠を買い込んだ。べべさんは毎日の買い物にアフリカ製の大きな籠がどうしても欲しいといっていたのだ。丸山、村尾の若いお嬢さん方もいろいろ買い物をしたようだった。それからようやくフェアビュー・ホテルに到着する。もうこれ以上車は走らせない。南緯35度から北緯1度までの1万8千キロにおよぶアフリカ縦断の旅は無事終了した。
 翌31日朝9時に、約束どおり南アから2人のドライバーがホテルに車を引き取りにきた。彼らはこれから1週間、モンバサでバカンスをとったあと、5日間でヨハネスバーグまでぶっ飛ばして帰るということである。折れたスプリングに予想通り荷締めベルトをぐるぐる巻きに締め付け、荷物はできるだけ健在なジロー号の方へ積み込んでホテルをあとにした。
 レンタカーを返して、われわれの車の旅は本当に終結した。ナイロビ在住のさまざまな方々にお世話になり、11月1日夕方、私たち年寄り組5人がナイロビ空港へ向け、ホテルを出発する際に、隊は解散した。若い3人はまだしばらくナイロビに滞在し、結局、孫君に連れられてレンディーレを訪れたとのことである。およそ1ヵ月後には、全員が無事に日本に帰国した。
 アフリカ縦断の旅はこうして無事に終わりを告げた。最後には車も悲鳴をあげ、われわれAACK組も長旅の限界を感じていた。やはり、アフリカの旅は厳しいものであった。69日間におよぶ長い車の旅はしんどく、諸般の事情が許したとしてもカイロまで一気に行くことは無理だったろうと思われる。アフリカ大陸は広く、そしていろんな意味で雄大であった。アフリカ諸国はいま実にさまざまな困難を抱えている。しかし、アフリカの人々はめげず生き抜き、そして底抜けに明るい。あの明るさがあるかぎり、アフリカは永遠に生き続けるだろうと私には思われるのである。

ナクル湖を埋めつくしたフラミンゴの群。湖はピンクに染め上げられている。(撮影:孫暁剛)
ナクル湖国立公園の中でついにサイを見つけた。左の小動物はイボイノシシ。(撮影:孫暁剛)

(第3部 完)