ロールワリン・ヒマラヤ「ラムドン・ピーク(5925m)登頂」

   -  平均年齢68.5歳の塾年登山隊6名全員登頂の記録 -   

(2008年10月10日~11月18日)

 

                                    阪本公一

 2008年秋に、ネパール・ヒマラヤに出かけた。目的は、ロールワリン山群のラムドン・ピーク(5925m)の登山。メンバーは、京大山岳部の先輩の谷口朗さん(70歳)、福本昌弘さん(70歳)、伊藤寿男さん(69歳)、田中二郎さん(67歳)、元京都山岳会の岡部光彦さん(67歳)と隊長の私(68歳)の合計6名、平均年齢68.5歳の熟年登山隊。副隊長は谷口さんに御願いした。 

 

1.ロールワリンについて:

 ロールワリンとは、チベット語の「Rolwa = 耕す」という語と、「Ling = 場所・土地」から発生した地名らしい。ロールワリンの人びとは、ロールワリンは約1200年前にチベットに仏教をもたらしたインドの大修行者サドマサンバヴアによって開墾された聖地、隠れた谷「Beyul = ベユル」と考えているという。ロールワリンは、エベレストのあるクンブー山域の西隣にある割りと小さな山塊である。ロールワリンの人びとは、熱心なチベット仏教徒であり現在でも殺生は一切許さないらしい。ロールワリンの中心の村、ベデインやナは、シェルパ族の住む村で、遠征隊やトレッキング・ガイドの仕事をする人が多い。村の多くの人がカトマンズに別宅を構えており、ベデインやナの村落には以前の1/3 ~1/4の村人しか住んでおらず、ヤクの放牧も激減しているという。村人の殆どは子供達をカトマンズに住ませて教育しており、ベデインの学校の生徒も現在6名のみ。

 

2.ロールワリンの山:

 ロールワリンには、8000m以上の高山はない。ネパール側の鋭鋒ガウリサンカル(7134m)ガウリサンカルとチベット側のメルンツエ(7175m)の2峰だけが7000mを越える山だが、30近くの6000mがきら星のごとく連なる魅力ある山域である。

 ロールワリンに初めてきた外国人は、1951年のシプトン隊長率いるエヴェレスト偵察隊であった。その後、1952年にスコットランド隊(T・マッノン隊長)が入った。1964年から1971年までは、外国人のロールワリン立ち入りは禁止された。1979年にネパール・米国合同遠征隊によってガウリサンカル(7134m)が初登頂されたが、翌年の1980年から再度ロールワリンは外国人の入域を禁止した。1990年に登山及びトレッキング・ピーク登頂の許可を取得したグループのみにロールワリンが開放されたが、一般のトレッキングは許可されなかった。そのため、お隣のエベレスト街道と言われているクンブー山域に較べて、ロールワリンは訪れる人の少ない静かな隠れた谷として残されてきた。 

 

3.何でラムドン・ピークを選んだのか?                

 2002年秋にNMA(ネパール登山協会)が、ロールワリンのチョキゴ(6257m)を含む15の未踏峰を、2003年5月以降 トレッキング・ピークとして安い登山料で許可すると発表した。その年の6月に四川省の未踏峰ダンチェツエンラを登ってきた宮川清明さんと私は、2003年秋にチョキゴに行こうと検討したが、登攀能力のある若手メンバーが集まらなかったため、結局チョキゴ登山はあきらめた。チョキゴは、2004年にイギリス隊が挑戦し敗退。その後何隊かがトライしたようだが、2005年にスイス隊が初登頂した。私はその後は、他の地域のトレッキングや登山に数年ついやしてしまった。

 インド・ヒマラヤに行く前の一昨年から、ロールワリンへの憧れが私の心にふたたび沸々とわき上がってきた。背伸びしないで、70歳近い私たちの実力と体力でも安全に登れそうな6000m前後の山に行こうと具体的に検討し始めた。登山者が多くてテント村が出来るような騒々しい山はいやだ。有名な山でなくともよい。静かな環境のなかで、自分たちの山登りが楽しめるような山に登りたいと言うのが、私の選考基準だった。ラムドンゴというこれまで名前も聞いたことがない5925mのトレッキング・ピークが、ロールワリン河の南、ちょうどチョキゴの対岸にあることがわかった。インターネットで調べると欧米人たちはかなり登りに行っているらしいが、日本人は殆ど訪れていないらしい。ラムドンゴに心が傾いてきた。1980年秋にラムドンゴに登頂された大阪山の会の大西保会長にお会いしてお尋ねしたところ、「晴れていたら向かいのガウリサンカルだけでなく、エベレストやチョーオユーまでの素晴らしい景色が楽しめますよ。そんな難しい山じゃないし、高度順応さえきちんとやれば年寄りでも登れますよ。」との情報を御提供いただき、又御親切に地図までもお送りいただいた。大西さんの言葉で、「ラムドンゴに登りに行こう」と私の心は決まった。

 

4.ロールワリン遠征の準備

 ラムドン・ピークは、Ramdung 又は Ramudung Go とも呼ばれる、ロールワリン河の南側のヤルン峠(Yalung La 5310m)の南東約4kmに位置する氷河をいだく5925mの山である。1952年にBill Murray隊長が率いるスコットランド隊により初登頂された。

 今回、NMA (Nepal Mountaineering Association)より発行された「Climing Permit」及び登頂後受け取った「Certificate of Successful Ascent」には、「Ramdung Peak, 5925m」と明記されていたので、本文ではこの山の正式名を「ラムドン・ピーク」と記載することにする。現在、ラムドン・ピーク(5925m)はトレッキング・ピークとして開放されており、登山料は4人までのグループでUS$350.-, 5−8人の場合は追加メンバーの登山料は一人当たりUS$40.-, 9−12人の場合は追加メンバーは費用はUS$25.-と非常に手頃な費用で登れる。私たちの場合は6人メンバーなので、登山隊として支払った登山料はUS$350.- + US$40 x 2人 = US$430.- であった。そのほかにトレッキング許可書が一人当たりUS$40.-かかる。

 現地のアレンジは、ロールワリン出身のシェルパやポーターを数多くかかえるSeagull Travel & Tours (P) Ltd. に任すことにした。我々は平均年齢が70歳近い体力・実力の乏しい熟年登山隊なので、クライミング・シェルパ3名のサポートをお願いした。

 全ての手配をSeagull Travel に任すことにした。6人隊で、一人当たりの費用をUS$2,050.-で契約した。 ネパールへ出発する一週間ほど前に、Seagull Travelから連絡が入り、我々の遠征隊のサーダーは、あの有名なナワン・ヨンデン・シェルパに決まったとのこと。ナワン・ヨンデンさんはロールワリンのナ村の出身のシェルパで、これまで日本隊との縁も深く、カモシカ同人の厳冬期エベレスト遠征隊の時ネパール人として初めて厳冬期エベレストに登頂したシェルパ。その後、日大エベレスト北東稜遠征隊、ロシアエベレスト南西壁隊、日本山岳会東海支部K2西壁隊、同東海支部ローツエ南壁第1次、第2次、第3次遠征隊、そして福岡大学ギャチュンカン遠征隊等々のサーダーをつとめた56歳の高名なシェルパ。ナワン・ヨンデンさんのような実力あるサーダーは、数年前から申し込んでもなかなか引き受けて貰えないそうだが、そんな名サーダーが我が隊をサポートしてくれる事になり、正直驚いてしまった。シェルパはサーダーを入れて3名で頼んでいたが、ナワン・ヨンデンさんの実兄のナワン・サキヤさん(ナ村在住、63歳、エベレスト7回登頂)がラムドン・ピークに詳しいとの事で、ラムドン・ピークのみのシェルパとして働いてくれる事になった。私が親しくおつき合いさせていただいている山田良二さん、鈴木幹夫さんや鈴木正典さんが、K2遠征の時やローツエ南壁遠征の時に世話になったらしく、未だ会ったことがないサーダーのナワン・ヨンデン・シェルパがぐっと身近に感じられた。

 

5.カトマンズからロールワリンヘ:

 10月10日の真夜中の1時25分、関空発のタイ航空にてカトマンズへ出発。バンコクで乗り換えて、カトマンズにはその日の12時45分に到着。その日の午後は、エージェントと打合せし、翌日はカトマンズ市内をのんびりと観光。10月12日にチャーター・バスに乗って約10時間かかってシガテイへ。翌日13日からジャガット、シミガオン、ドグナンを経て4日目の10月17日にロールワリンの中心地ベデインに着いた。 ベデイン村の裏にはガウリサンカル(7134m)の前山が聳える。10月17日は、休養日。ベデインの裏山の瞑想所へハイキングに行った。崖の絶壁のテラスにへばりついたような小さな瞑想所だ。ベデインの学校の子供達にと、日本から持参した画用紙帖と10色入り色鉛筆セット10人分をベデインの子供達にお土産として渡すことにした。残念な事に、ちょうどダサインで学校が休みとの事で、先生達には会えなかったので、サーダーを通じて子供達のいる家族に手渡して貰った。キラキラ光る目で、にっこり笑って「ダンニャバード(ありがとう)」と礼儀正しくお礼を言う子供達にこちらも自然と笑顔がこぼれる。母親やお婆ちゃんも、嬉しそうに喜んでくれた。たいした事ではないが、地元の人達とのささやかな交流が出来たような気がした。

 10月18日、晴れ。ベデインからのんびり歩いて約4時間でロールワリン最奥の村ナ。ナ村では、サーダーのナワン・ヨンデンさんの経営するロッジ「Rolwaling Mountain Resort - Na」に宿泊する予定だ。このロッジをベース・ハウスにして、ツオー・ロルパ及びリピモシャール氷河への高所順応ハイキング、及びラムドン・ピークのアタック・キャンプへの偵察も行う予定だ。休養日も入れて10日間宿泊の予定。風呂はないが、新しい建物で、部屋もトイレも小ぎれいで、気持ちの良いダイニング・ルームも快適そうだ。ロッジの前が草の広場になっており、テントや寝袋を乾かしたりしていると、ときどきヤクが遊びにやって来るというのどかな風景。ナワン・ヨンデンさんは、シェルパとして稼いだお金でカトマンズの郊外に一軒家を持っており、又ルクラでも16室のロッジを経営しているというロールワリンでも有数の富豪。ベデインやナのゴンパの修復にも随分高額の寄付をしたらしい。彼は6歳頃から5~6年ゴンパで修行していたらしく、実に敬虔な仏教徒である。実兄のナワン・サキャさんは、シェルパとしての仕事をしながら、ベデインとナのラマとしてゴンパの仕事もしている由。サーダーは、早速近くの民家にテントを張っているトレッキング・パーテイを訪れ情報収集。数日前に、ドイツ隊がラムドン・ピークに挑戦したが、雪が深くて頂上には登れずに撤退してきたとの事。ロールワリン河の右岸のナ村の裏には、左側にチョキゴ(6257m), その右には未踏峰のバマンゴ(6400m)が聳える。バモンゴは、ネパール側のナ村からはどこからもとりつけそうにない急峻な岩と氷の山だ。ロールワリン河の奥には、名峰チョブチェ(6685m)が聳える。 

ガウリサンカル遠望
秀峰チョキゴ(6257m)
チョキゴ=左、バモンゴ=右
チョキゴ・バモンゴ・カンナチュゴの稜線
カンナチュゴとツオナビク
ツオナビク

6.高所順応(10月19日~26日):

    「ツオー・ロルパ、リピモ氷河探索」

 私たちは年金生活の熟年登山隊なので、急ぐ旅ではないから、出来るだけ余裕を持った高所順応期間をとろうと、ツオー・ロルパへのハイキングとリピモ氷河の探査行を計画した。10月19日は、ツオー・ロルパの4700~4800mあたりまでのハイキング。ツオ-・ロルパはネパール最大の氷河湖と言われている。氷河の決壊による被害を防ぐために、世界各国からの調査と支援が行われている。日本からも、名古屋大学の大気水圏研を中心とする氷河学者が何度か調査にきている氷河湖だ。京大山岳部OBの門田勤さんや藤田耕史さんも観測にきたとの記録がインターネットにでていた。6時50分にロッジを出発。ナ村のある右岸から吊り橋を渡って左岸の台地へ。なだらかなロールワリン河沿いの道を2時間ほど歩いて、ツオ-・ロルパの大きなモレーンの下にかかる橋を右岸に渡る。モレーンの急坂を登ると観測所があるツオー・ロルパに9時35分に到着した。突然、観測所の方から、ネパール人のガイドが飛び出してきた。「日本人のトレッカーが高山病になって困っている。観測所の無線が使えないので、衛星電話を持っていたらヘリコプターでの救助を要請するのに使わして欲しい。」との依頼。私達がウエック・トレックからレンタルしたスラーヤ衛星携帯電話を今日はナ村のロッジに置いてきた。今日は高所順応活動の第1日目で大事な日だが、人命にはかえられない。福本さんと私がナのロッジまでガイドと一緒に下山し、衛星携帯電話でヘリコプター救助要請のサポートをした。他のメンバーはサーダー、シュルパと一緒にツオ-・ロルパの最奥の約4700mまで登って午後16時過ぎに帰ってきた。ツオー・ロルパの上のロッジでガイドと話をした我々のサーダーは、実はあの日本人の客はラムドンに登っていないのだと聞かされたという。不可解な話だ。その日の午後は、福本さんと私は休養日のようなのんびりした日だったが、他のメンバーは16時過ぎにかなり疲れて戻ってきた。4700mまで登ってきたらしい。高所順応初日としては、十分な成果だ。

 10月20日は、休養とし、のんびりと洗濯したり、寝袋をほしたり。ツオー・ロルパの方へ救援のヘリコプターが跳んでいき、すぐに折り返してカトマンズの方へ帰っていった。あの日本人は、うまく救助されたらしい。よかったとほっとする。暇な時間をみて、ロッジの裏の滝を見に行く。ロールワリン河沿いに広く開けたナ村全体が見下ろせる。

 10月21日、晴れ。今日は待望のリピモ氷河へ入る日。随分大きな氷河なのにこれまでリピモ氷河に入った記録は殆どなく、北大のタンナク・リ(6801m)遠征隊の報告書で知るだけであった。未知の部分が多く、非常に興味のある氷河だ。今日は出来たら5000m近辺まで登って、リピモ氷河全体の把握をしながら、対岸のラムドン・ピークの状態も偵察したいという欲張った高度順応行動の計画だ。 ビスケットと紅茶だけの朝食をすませ、4時40分にロッジを出発。 ツオー・ロルパへ登る道を途中から外れ、北方の丘を目指して登るとリピモ氷河のモレーンに出た。リピモ氷河は左俣と右俣にわかれている大きな氷河だ。アンナプルナ内院と同じような馬蹄形の広大な氷河。左俣の入り口に、未踏峰のカン・ナチュゴ(6735m), その北隣の6381m峰は1/50000の地図では「Thama Bhanjyan」となっているが、サーダーのナワン・ヨンデンさんは彼等地元の人間は「ツオナビク」(Tsonakpuigo = 湖の豆)と呼んでおり、この山も未踏峰の筈だと。左俣の一番奥のリピンツエ(6357m)もカトマンズ在住のネパール・ヒマラヤ研究家のエリザベス・ホーレさんによると未踏の山とのとこと。その隣のリピムツエ西峰(6301m)は中国側から1992年にスロバニア隊が初登頂したが、主峰には登れなかったらしい。

 我々はリピモ氷河右俣と左俣の真ん中にある尾根を登った。この中尾根の末端でリピモ氷河は二つにわかれていて、右俣の入り口にあたる所に紺碧の小さな湖がある。地図にはオマイツオーと記載されているが、地元の人間は「オミ・ツオ=ミルクの湖」と呼んでいるのだと、サーダーが教えてくれた。右俣の奥には円錐型の堂々としたタンナク・リ(6801m)が聳え、その南に未踏峰のパパ(6553m)がつづく。リピモ氷河右俣からは、全くパパにとりつけそうにもない。右俣の入り口には名峰チョブチェ(6685m)がどっしりと聳えている。チョブチェ南面はもの凄い壁。リピモ氷河右俣に入り、北東壁から初登頂されたらしい。チョブチェ南壁ダイレクト尾根や南西稜は未だ誰にも手をつけられていないのであろうか? チョブチェとパパの間にタカルゴという6793mの立派な山がある。1977年にイタリア隊によって登頂されたらしい。リピンツエから大きく曲がって降りてくるこの中尾根は5300m位までは草つきの尾根で、我々は「若草山」と呼んでいたが、リピモ氷河の左俣から右俣を思う存分眺められ、ロールワリン河対岸のチョキマゴ(6259m)やヤルン・リ(5630m)見渡せる晴らしい景観を楽しめる尾根であった。しかし、風速20m以上の強風が吹き荒れ、油断すると倒されそうになった。中尾根の4980mまで登り、下山した。この日は気がつかなかったが、帰国後写真を整理してみると、この中尾根から撮った写真のチョキマゴの奥にラムドン・ピーク(5925m)が僅かに頭を覗かせていた。オマイツオーの南端にナ村の住民達が作った祭壇があり、サーダーのナワン・ヨンデンさんは、米をまき、お御酒をささげて、我々のラムドン・ピークの安全登山を祈願してくれた。充実したリピモ氷河の探索と高度順応ハイキングを終えて、16時10分にロッジに帰着した。翌日10月22日は完全休養日とした。シェルパ達はテント、ロープ等の装備を点検。私たちは、洗濯したり、寝袋をほしたり、アイゼン、ハーネス等の個人装備をチェックした後、ロッジの隣にあるナ村のゴンパへお参りした。ラマのナワン・サキヤ・シェルパが御経をあげ、登山の安全を祈ってくれた。

リピモ氷河
リピモ氷河左俣
リピモ氷河右俣
チョブチェ=右とリピモシャール氷河
タンナクリ(左)とパパ
チョブチェ (6685m )
ツオー・ロルパ
ツオーロルパの東のテンカンポチェ(6489m)

7.ラムドン・ピーク登頂:

 第2次高度順応を兼ねて、ヤルンカルカのBC予定地から5500~5600mのアタック・キャンプ予定地へ10月23日と24日の2日をかけて偵察に出掛けた。この偵察から、ラムドン・ピークに過去3度登頂しているサーダーの実兄のナワン・サキヤ・シェルパ(63歳)が同行してくれることになっている。ナガオン手前からヤルンカルカ(4900m)へ登る道はよく踏まれていて歩きやすい。小さな小山を幾つか越えると、広い盆地状のヤルンカルカにでた。ヤルンカルカの真南は、5310mのヤルン・ラ、そして南西にヤルン・リ(5630m)。ヤルンカルカは、モンスーン・シーズンの6~7月は無数の花が咲き乱れ、天国みたいな高原になるらしいが、今は草はすべて枯れ、木枯らしも吹き始めてやや寒々としたカルカだ。カルカの東側の丘の下に、清い水の小川が流れており、キャンプ場としては最高。ナワン・ヨンデンさんは、近い将来にこのヤルンカルカにロッジを建てたいと言う。タマコシ河の発電所が出来たらチェチェットまで車で入れるから、ロールワリンにやって来るトレッカーも急増して、ロッジ商売はきっと繁栄するだろうとの読みのようだ。その日の午後は、ヤルンカルカBCでゆっくり休養。先日ヤルンカルカへ上がったイギリス隊は、ドイツ隊の撤退の話を聞いてラムドン・ピークは断念して、昨日ヤルン・リに登って今朝ナ村に下山した。

 10月24日、今日も快晴。5時40分にBC出発。ゴロタ石の歩き難い小さな丘を越え、その次の尾根の稜線に上がると、小さな氷河湖が下に見えた。その尾根の最上部はヤルン・リからくる岩稜につながる。氷河湖の右手上部にある雪面を目指して、斜めにトラバースするように下り、そして右手の雪面を目指して登る。氷河湖の左手からも行けるが、過去の経験から右手のルートの方がベターとのナワン・サキヤさんの意見。浮き石が多く、又石車で滑りそうな厭な下りのトラバースだが、サキヤさんは非常に慎重にルートを選び、我々を先導してくれた。雪面の手前の岩のところで休息。雪はしまっており、ワカンの必要はないので、岩の下にワカンをデポして、傾斜約30度の雪面をジグザグに登る。くるぶし位の堅雪で、最高の雪の状態だ。 広い台地の上に到着し、休息(11時20分)。その一段上に、前回のドイツ隊のものと思われるトレースが残っていた。高度は5350mだが、アタック・キャンプはこのすぐ上だからほぼ見通しはついた、今日は無理する必要はないだろうとのサキヤさんの意見で、今日の偵察はこれで終わり今日中にナのロッジへ降りることにした。シェルパ達は一段上の急な雪面の手前(約5400m)まで、テント、ロープ、スノー・バー等の共同装備を荷揚げしてデポして降りてきた。ワカン、ピッケルは氷河湖の上の雪面のはじまる地点の大岩の下にデポすることにした。今日は、未だラムドンの頂上は見られなかったが、隊員全員の体調もよく、天気と雪の状態さえ悪くなければ全員登頂も出来そうだと見通しを持つことが出来た。ヤルンカルカBCに15時05分着、ナのロッジ帰着18時20分だった。テントは、次回の登頂日の為に張ったままヤルンカルカに置いて行くことになった。今日はヤルンカルカに泊まって明日ナへ下山する予定だったが、これで1日セーブ出来、2日みていた予備日が3日となって随分と余裕が出てきた。今日まで、悪天なしの好条件がつづいてきたが、天気はいつ崩れるかも知れない。予備日がたくさんあれば、それだけ登頂の可能性は高くなる。

 10月25日(晴れ)と26日(晴れ)の二日間は、登頂前の体調を整える為に完全休養日とした。サーダーとラムドン登頂スケジュールを打ち合わせる。アタック・キャンプからラムドン・ピークまでは結構距離も長く年寄りには疲れる行程だから、登頂後無理してBCまで降りずに、アタック・キャンプにもう一晩泊まってからBCへ降りた方が安全だとサーダーがアドバイスをしてくれた。彼の意見に従うことにする。

 10月月27日、晴れ。2度目のヤルンカルカBC行きだから、心のゆとりがある。今日はBCまでなので急ぐことはないと、のんびりと景色を眺めながら休み休み登り、12時30分にBC着。午後は、何度もお茶を飲み、十分な休養をとった。

 10月28日、晴れ。そろそろ明るくなりかけた6時40分にBCを出発。割りと早く氷河湖の手前の丘の上に8時30分着。雪面までのトラバースは何度歩いても厭なところだ。先行していたシェルパが雪面の手前の大岩のところで動かない。合流して解ったのだが、我々が大岩の下にデポしたピッケルとワカンが、その後の好天で融けた雪の水が流れ込んで凍結してしまい、とれなくなってしまっていた。1時間かかって、なんとか全ピッケルとワカンをとりだしたが、私のワカンの片方が折れて使えなくなってしまった。雪の状態は非常に良く、今日・明日はワカンを使う必要がなかろうと判断し、ワカンは岩の上にデポしてアタック・キャンプに上がることにした。5766mのピナクル・ピークの下の急なしんどい雪面を登り終わって一服(12時25分)。雪はクラストしていてくるぶし位までしかもぐらず、非常に歩きやすい最高の条件。しかしこの高度にくるとさすがに歩くペースは遅く、遙か遠くにシェルパ達が先行し、アタック・キャンプを設営してくれていた(15時30分)。標高は持っている高度計により誤差はあるが、私の高度計は5550m, 他の人達は約5500mとなっていた。隊としてのアタック・キャンプの高度は5500mに統一しておくことにする。このACからは、遙か向こうに純白の丸いラムドン・ピークが望まれる。振り返るとガウリサンカルの勇姿が空高く浮かんで見える。ACの右手は、ラムドン氷河に切れ落ちている。ここからラムドン氷河にいったん降りて、氷河上を真っ直ぐラムドンへ向かうルートもあるらしいが、ヒドン・クレバスが多くて非常に危険であり、この氷河ルートは避けるべきだとのナワン・サキヤさんの見解。傾斜がきつく且つ稜線からは雪庇がでているが、左手のピナクル・ピークの稜線に上がってしまった方が遙かに楽で安全なルートらしい。距離的には随分遠回りになるようだが、経験豊富なサキヤさんの意見に従う。ラムドン・ピークについては、サーダーもこの山をよく知っているサキヤさんに全てまかせているようだ。

 10月29日、満天星空の快晴。午前1時に起床し、紅茶をわかし、ラーメンを食べて準備をしていると時間はあっという間にたってしまう。3時15分アタック・キャンプを出発。サキヤさんと若いダワの二人が、ピナクル・ピークの稜線への傾斜ある雪壁へルート工作に先行する。サキヤさんは、真っ暗な中をもの凄い勢いで、アイゼンのツアッケだけで登って大岩の下にスノー・バーを打ち込む。そこから約20m程右にトラバースして雪庇が一番小さい箇所を乗つ越した。サキヤさんとダワがフィックス・ロープを設置すると、すぐに私を先頭にメンバーがつづいた。早朝の出発間際に、この傾斜のきつい雪壁をユマールで登るのは息が切れてしんどい。稜線にでると尾根は暫くは痩せたナイフリッジとなって緩やかに東の方に降りている。尾根を降りきると、弥陀ヶ原みたいに広大は雪面となる。ところどころブレーカブル・クラストになっていて、ときどき膝くらいまでもぐり込むこともあるが、サキヤさんがうまくリードしてくれて、出来るだけクラストした雪面を果てしなく歩き続けた。6時過ぎ頃から、空がしらみはじめ、ラムドン・ピークの頭に朝陽があたりだした。すぐ近くのように見えるが、ピークはなかなか近づかない。頂上には左手の北壁を真っ直ぐ登るとのサキヤさんの説明。右手に回り込んで肩にでるルートは、傾斜が緩くて一見易しそうだが、クレバスが多くてかえって時間がかかり危険だとのサキヤさんの意見。サキヤさんとダワが、又先行して北壁のとりつき点のすぐ上にスノー・バーを打ってフィックス・ロープを張ってくれた。私たちが北壁の下についた時には、既に50mのフィックス・ロープを2本設置完了していた。もの凄い馬力とスピードだと感心する。サキヤさんはアイス・クライミングにたけており、各隊が代表選手を出してルート工作するエベレストのアイスフォール隊のリーダーとして何度も活躍したベテランだそうだ。私たちは、ユマールを使ってフィックス・ロープを登った。ラムドンの頂上直下の斜面はそれほどきつくないが35~40度くらい。サキヤさんが「フィックスはどうしますか」と聞いてきたので、「私たちは年寄りでバランスが悪いから、ここもフィックスを張って下さい」と御願いした。安全登山の為には、いいかっこをしたり、恥ずかしがることは何も必要はない。ラムドン・ピークの頂上はテニス・コートのような広い台地になっていた。6名の隊員全員、サーダー、サキヤさん、若いダワとチョンビの全員が揃ったところで、一緒にピークに立った。頂上到着は9時55分だった。  握手と抱擁。感激の一瞬だ。ガウリサンカルからシシャパンマ、ランタン・リルンが望まれる。リピモ氷河周辺の山々、テンギラギ・タウの向こうのクンブーの山々、そして東南には鋭鋒ヌンブールが聳える。素晴らしい景観だ。大阪山の会の大西さんからラムドンからの眺望は天下一品と聞いていたが、その言葉に偽りのない最高の景色だ。天候に恵まれたこと、サーダーはじめ素晴らしいシェルパのサポートがあったこと、全てに感謝したい気持ちで頂上での喜びをかみしめた。あっという間に時間がたち、記念写真を撮って下山開始。「折角頂上に登ったのだから、事故のないように降りましょう。」とお互い戒めあい、フィックス・ロープの箇所は懸垂下降で安全に降り、北壁の下へ。そこからACへの帰路は、本当に遠かった。全員6名が登頂出来たことは,隊長の私には何よりも嬉しいことであり、何度もラムドン・ピークの頂上を振り返りながら、のろのろとACへ戻った。いつこんなに時間は早くたったのかと思うほど、私たちの歩みは遅くAC帰着は14時50分だった。11時間半の行動でさすがに疲れ切って、夕食までに全員一眠りした。サーダーは「明朝、テントやロープの荷下ろしにポーターをよこすから」と言って、休憩もとらずにBCへ一人で降りて行った。もの凄い馬力だ。

 10月30日、晴れ。昨日の頂上アタックでさすがに全員疲れ、7時頃までぐっすりと眠った。ゆっくりとした朝食をとり、テントを撤収して9時35分にACを出発。63歳のサキヤさんも40kg以上はあろうかと思われる荷物を担いでいる。サブザックだけで歩く我々隊員も手伝うべきだったかも知れないが、体力のない悲しさ、手助けするすべもなく、シェルパの後姿を見ながらノタノタと雪面を下るだけであった。氷河湖からゴロタ石の浮き石の多い急斜面のトラバースは、疲れた身体には大変きつく、休み休みしながらよたりよたりとBCにたどり着いたのは15時だった。10月31日、晴れ。のんびりと7時頃まで寝て、9時にBC出発し、12時にナのロッジに帰着。やはり屋根のあるロッジは暖かく落ち着く。これまでの禁酒がとけて、夕方からロキシーとウイスキーで乾杯。全員登頂を祝い非常に盛り上がった。ナワン・ヨンデンさんは、下山はベデインからデンデン・カルカを通って、ダンドルン・ラ越えのカルカからカルカを巡る素晴らしい景観の道から、タシナム経由でジャガットに降りようとの新提案を出してくれた。このルートはときどきヨーロッパ人のトレッカーが歩いているが日本人隊は未だ誰も歩いたことがない筈だとのこと。全員サーダーの意見に大賛成で、デンデン・カルカ経由の迂回路をとることに決定し、登頂後のロッジでの晩餐は大いに盛り上がった。11月月1日は完全休養し、11月2日からダルドルン・ラを越えの道を通りのんびりと6日かけてシガテイにおり、11月9日にチャーター・バスでカトマンズへ戻った。29日間のロールワリン遠征は、これで無事に終了した。 

ヤルンカルカBCとヤルンリ
ヤルンカルカから眺めるヤルン・ラ
ラムドンACへの途中から眺めるチョキマゴ
ピナクルピーク
氷河湖とラムドンへの登路
氷河湖を下に見て雪面へのトラバース
アタックキャンプヘ
ACから眺めるラムドン
ラムドンを背景にナワン・サキヤさん
早朝のラムドン
ラムドン・ピーク
頂上にて記念写真
ナワン・ヨンデン、サキヤさん兄弟
ヌンブール(6957m)
ガウリサンカル
ガウリサンカル
全員登頂を喜びラムドン頂上を振り返る

 今回は、他の隊員はネパールが初めてなので、その後カトマンズ、ポカラでの観光を楽しみ、日本に帰国したのは11月18日だった。

 今回のロールワリン遠征は、平均年齢68.5歳の6人全員がラムドン・ピーク(5925m)に登頂出来、非常にラッキーであり、私たちにとって最高に素晴らしい結果だった。技術的には難しい山ではなかったが、BCから頂上までの距離が非常に長く、年寄りの私たちにはかなり厳しい登山であった。全員の体調が大変よかったこと、又高度順応タクテイックスがうまく行き誰一人深刻な高度障害にかからなかったこと、そしてナワン・ヨンデンさんという素晴らしいサーダーを得、豊富な経験と実力を持ったナワン・サキヤさんという優秀なシェルパのサポートがあったこと、そして何よりも天候に恵まれたことが全員登頂に結び着いたものと思う。全員無事に登頂出来たことは、隊長の私として何よりも嬉しかった。登頂後、BCからナへ下山するとき、一緒に歩いているサキヤさんが、こんなコメントをしてくれた。「バラ・サーブ、ウオーク、ベリー・ビスタリ、ビスタリ。ソ、エブリボデイ、キャン・ゴ、イン・オーダ。イッツ、ベリー・グッド(隊長が非常にゆっくり歩くから、皆が乱れずに一緒に歩くことが出来て、大変よかった)」。 

 ポカラでの観光を終えてカトマンズに戻ってきてから、ナワン・ヨンデンさんから電話を貰った。全員で自宅へ遊びに来て欲しいとの招待であった。御家族にご迷惑をかけるのは避けたいと、どこかのレストランで私たちが夕食を招待したいと申し出たが、「是非是非我が家に来て下さい」との強いお誘いを受けて、ナワン・ヨンデンさん直々のお迎えのタクシーで、サーダーの自宅へ出掛けた。サーダーの家は、カトマンズ北方の郊外住宅地に建つ緑の芝生の庭のある素晴らしい瀟洒な一軒家だった。奥様の手料理で昼食をもてなして下さり、恐縮してしまった。手作りのドブロクを飲みながら、次々とでてくる料理を御馳走になった。「ウイスキーもどうぞ」と新しいスコッチの瓶が開けられ、「マア一杯」、「もう一杯だけ」とすすめられる。奥さんの手作りの大きなデコレーション・ケーキまで出てきた。ケーキには「2008 NEPAL・JAPAN FRIEND CLIMB」と私が頂上用の旗に書いたのと同じ文言が、クリームで書かれていた。ナワン・ヨンデンさんに、丁重にお礼を申し述べたところ、次のような言葉がかえってきた。「今まで、随分たくさんの遠征隊で山に登りました。年輩の方が登頂されることもありましたが、今回のように70歳近いメンバー6人が全員登頂されたのは、私の遠征経験で初めてです。こんな素晴らしいことはありません。皆さんと同じように、私も非常に嬉しいのです。おめでとうございます。」との暖かい言葉をいただき、ネパール帽子のプレゼントまで頂戴した。全員が、胸がジンとなるほど心から感動した。ナワン・ヨンデンさん宅での素晴らしいパーテイは、今回の遠征隊の隊員すべてにとって、いつまでも忘れられない思い出になるであろう。