2009年ザンスカール(インド・ヒマラヤ)遠征

(2009年8月6日~9月12日)

2009年京都ザンスカール遠征隊

阪 本 公 一

 

 2007年初秋にザンスカールのパダムからシンゴ・ラ峠(5095m)を越えて、ダルチャ迄歩いたが、この時レルー谷の奥に聳える魅力的な山々を垣間見て、未知のこの谷に強く心を引きつけられた。広く開けた明るいレルー谷の奥には、きっと知られざる未踏の処女峰が沢山眠っているに違いないと推測した。帰国後、The Alpine JournalやAmericann Alpine Journalで過去の記録を調べてみたが、レルー谷に入った遠征隊の報告文は見あたらなかった。インドのHimalayan Clubの友人のサテイアさんや、重鎮である Harish Kapadiaさんにも問い合わせたが、彼等の知る限りでも、レルー谷の遠征記録は見あたらないとのことだった。レルー谷の周辺には、6000m前後の未知の山々が30座以上はあろうと推測され、Harish Kapadiaさんからの貴重な情報をいただいた上、2009年夏にザンスカールに出かける具体的な計画を立案した。

 今回の遠征は、「知られざるレルー谷の未踏峰探査」を主目的とし、レルー谷探査に丸8日間の日程を組み入れることにした。そして、レルー谷探査の後に、プルネ(Purune )から プクタル・ゴンパ(Phuktal Gompa),タンタック・ゴンパ (Tantak Gompa)を経て、ザンスカール最深部のシャデー村(Shade)を訪問し、その後ニアロ・コンツエ・ラ峠(Nialo Kontse La 4850m)とゴツンタ・ラ峠(Gotunta La 5100m)を越えて、マナリ -  レー間の道路沿いにあるギアン(Gian)迄歩く、静かなザンスカール最深部の12日間のトレッキングで締めくくる計画とした。

 いろいろな事情で参加出来なくなった仲間もいて、最終的なメンバーは、隊長の私阪本公一(69歳、AACK会員)、谷口朗(71歳、AACK会員)、宮川清明 (68歳、京都山岳会会員)、岡部光彦 (68歳、元京都山岳会)の4名となった。

 ラダックは、インド北西部のジャム・カシミール州に属する同州最大の地方の呼称である。人口が約7000名のザンスカールは、行政上はラダックに組み入れられている。

 この地方の山々は、カラコルム山脈に接するインド・ヒマラヤの北西部にあり、幾つかの小さな山群から成り立っている。中国の国境となっているパンゴン湖の西に小規模なパンゴン山群があり、その西側にラダック山群がある。ラダック山群は、北はカラコムルのサセール・カンリ1峰(7692m) の南からツオ・モリリ湖に至る南北に長い山群である。ザンスカール山群は、このラダック山群の西に位置する。ヌン峰(7135m)やクン峰(7077m)から南のキーラング(Kyelang)に至るこの山脈は、地図上ではナンガ・パルバット(8126m)につながる Great Himalaya として分類されており、ザンスカール山群とは記載されていない。この Great Himalaya の主稜線の西側は、ヌン峰・クン峰の南のシックル・ムーン(6571m)のあるあたりからの南部は、キシュトワール(Kishtwar)山群と呼称されて鋭鋒が多い。イギリス・イタリア等の欧州人の登山記録が数多く残されていて、殆どの山が欧州的な山名がつけられている。日本人としては、1977年に広島山岳会が難峰のバルナジ2峰(6290m)に初登頂している。

 一方、このGreat Himalayaの東側は、意外と遠征隊が入っておらず、未知の山々が多く、まともな山名もつけれれていない。日本人としても、1980年に北大WVOB隊のZ1峰(6181m)初登頂、1976年の東洋大学隊のドダ峰(6560m)初登頂と1997年の北大山岳部の同峰再登頂、そして1984年の独協大学隊のラハーモ峰(6000m ?)初登頂 ぐらいしか見あたらない。この Great Himlayaの東側は、まだまだ手つかずの未踏峰が数多く残されている山塊である。ラダック山群で数多くの初登頂の実績を残された中京山岳会の沖充人氏が、2008年夏にこのGreat Himalaya の Z3峰周辺の山々を探査され、この山塊の究明に情熱を燃やしておられる。

 ヌン峰・クン峰から南に延びる Great Himalaya の山群には、大きな氷河も発達しており、カラコルム的な男性的鋭鋒が多い。一方、カルギルから、スル谷、ドダ河、ツアラップ河の東にある地図上のザンスカール山群は、大きな氷河は殆どなく、どちらかといえば女性的なやさしい山並みが続いている。ザンスカールの中心地パダムの東にある山群と対比する為、 ヌン峰・クン峰から南に連なる Great Himalaya の東側の山群(西側はKishtwar山群)を、私は「ザンスカール西(Zanskar West)」とあえ呼ぶことにしたい。 

1.「ラダックの中心地レーからザンスカールのパダムヘ」

Ladakh & Zanskar Map(クリックすると地図が開きます。)

 8月6日に関空からデリーへ向けて出発。デリーで2泊した後、8月8日の早朝6時15分発のフライトでラダックの中心地レーへ。高所順応を兼ねて、標高約3500m のレーに三泊して チベット・ゴンパを参拝した。レー旧王宮、ツオモ・ゴンパ、シエー・ゴンパ、テイクセ・ゴンパ、スタグマ・ゴンパ、ストック・ゴンパ、スピトク・ゴンパ、チュムレ・ゴンパ、タクトク・ゴンパ、ヘミス・ゴンパ、マト・ゴンパを訪問した。各ゴンパの本堂で般若心経を唱えさせていただき、一緒にラダック・ザンスカールに行こうと計画していた矢先に美濃の山での無惨な遭難事故により3年前に亡くなった故朝倉英子さん、そして山スキーの仲間で今年8月に病死された木村芳弘さんの御冥福をお祈りして供養した。

 8月9日は、ダラムサラからレーに到着されるダライ・ラマ14世の歓迎に街道は現地住民で埋め尽くされ、私達も一緒にダライ・ラマ14世を出迎えた。車の中で大衆に手を振っておられるダライ・ラマの御尊顔を拝し、心がジンとする感激を味わった。

 8月11日、レーを7人乗りジープで出発し、リキール・ゴンパ、サスポール・ニダプク・ゴンパ、アルチ・ゴンパ、リゾン・ゴンパを参拝した後、ラマユルのHotel Moon Landに投宿。

 8月12日、早朝ラマユル・ゴンパに参拝。9時頃に我々と合流する予定だったキッチン・スタッフの3名が到着せず。途中で車が故障したらしく、彼等がラマユルに着いたのは午後3時頃であった。いささか待ちくたびれたが、夕方6時40分にカルギルのホテル・シアチェンになんとかたどり着いた。

 8月13日は、早朝5時40分にカルギルを出発。途中ヌン峰、クン峰はじめ、北大隊の大内倫文さん達が初登頂されたShafat Glacier の奥にあるZ1峰(6181m)や、Z3峰周辺の山々の写真撮影のために何度も車を停めてじっくりと魅力的なザンスカール西の山々を眺めた。お陰でパダムのホテル・オマシラに到着したのは、陽もとっぷり暮れた午後8時40分であった。

 8月14日は、午前中は休養。午後ザンスカール最大といわれるカルシャ・ゴンパ及びその隣の尼寺チューケグナル・ゴンパに参拝。その後、ガイドのツアン君の実家を訪問し、御両親及び御兄弟と歓談した。典型的なチベット民家のリビング・ルームで、バター茶とクッキーで歓待を受け、楽しい交流となった。

 8月15日は、車で午前中にザンラ・ゴンパ、ザンラ旧王宮跡、トンデ・ゴンパを訪問。昼食後、ダライ・ラマ14世の滞在される新装なったポタン・ゴンパを外から見学した後、ツアン君の姉上の家を訪れ、御家族からバター茶の接待を受けた。お互いの言葉は通じないが、なにか心に暖かい気持ちが通いあった。 

テイクセ・ゴンバ
ラマユル・ゴンパ

2.「知られざるレルー谷の未踏峰探査」

Outline of Reru Valley Area(クリックすると地図が開きます。)

8月16日(日):曇り後雨(13時過ぎより)。

 8:40/ホテル・オマシラ -  10:30/Shila  -  14:40/バルダン・ゴンパ学校キャンプ場。

 いよいよ、レルー谷探査行が今日から始まる。パダムからシンゴ・ラ向けの自動車道は既にレルー村の先まで開通している由。2年前は、パダムからTsarap河の左岸の車道を歩いたが、今回は車の通らない右岸の旧道を歩くことになった。昔ながらの旧道は落ち着いた趣があり、行き交う車での砂埃を浴びることもなく、遙かに快適であった。10時半頃Shila村の手前より、対岸のKapang Tokpoの右岸にP6028の山容が見えだした。Shilaから更に約1時間歩くと、Kapang Tokpoの左岸奥にP6431と思われる見事な岩壁の鋭鋒が望まれた。マッターホルンにそっくりな山なので、私達は「ザンスカール・マッターホルン」いうニック・ネームをつけた。

 Tsarap河の左岸の岩壁上に立つバルダン・ゴンパ は、絵になる光景である。ゴンパを過ぎてから、Tsarap河にかけられた吊り橋を右岸から左岸へ渡り、先ずバルダン・ゴンパ経営の学校の運動場へ向かう。ここが私達のキャンプ場だ。キッチン・スタッフ達は、今日はパダムから車でここまできたという。夕方に馬方3名と馬10頭が、ここで合流の予定。

 この学校の運動場は、2年前にも使わせていただいた。又、学校の授業を参観させて貰ったり生徒達と遊んだ楽しい思い出があるので、京都からのお土産として色鉛筆、クレヨン、キャンデー等を持参したが、日曜日とあって学校の扉はしまっていた。入り口のドアにお土産を入れた袋をぶら下げ、先生宛にメモを入れておいた。

 テントを設営後、バルダン・ゴンパに参拝。ダライ・ラマ14世が17日からパダムでお説教をされるので、それを聴きにレーから観光バスでやって来た人たちでバルダン・ゴンパはごったがえしていた。 

P6028(Left) P6028
P6431 Bardan Gompa

8月17日(月):晴れ後曇り。

 8:00/バルダン・ゴンパ学校 -  11:30/レルー・キャンプ場上の尾根 - 12:00/レルー谷屈曲点 -  13:00/レルー・キャンプ場 (NE33-20 - 04・28 , E76-57- 45・75, 3,808m)。

 Tsemasa Nala の右岸に聳える見事な岩峰のP6071(R1)が、キャンプ場からみられる。正面壁はどこから登ってよいのやら、極めて迫力のある岩山だ。レルー迄の車道歩いていると、このP6071(R1)が形を変えながら望まれる。車道には、インド南部からきた道路工事の人夫が沢山いたが、まともに働いているのはほんの僅かで、大半が道に座り込んだり、仲間と立ち話して遊んでいる始末。ダルチャ迄開通するのは、何年先のことやら?

 レルーのキャンプ場には直行せず、先ずレルー谷の屈曲点まで出かけてみることにした。2年前にも、谷口と二人でここまで偵察に来たことがあり、広く開けた谷の奥に、P5862 (R27)とP6158(R26)の懐かしい岩峰が見える。レルー谷周辺の山々は数が多く、山名が全くついていない。標高だけでは混同する恐れがあるので、私達は暫定的な山名として「R1」「R27」というような記号を付けた概念図を今回持参した。

 キャンプ場は、ドイツ人初め欧州人の団体パーテイでごった返していた。キャンプ場の小さな池に流れ込む清流の中に石けん水を流しているドイツ人の若者がいたので、注意したが、自然環境保護のなんたるかも理解せずに屁理屈を述べて反論ばかりする智恵のない大馬鹿者であった。後にP6071(R1)の見えるレルー・キャンプ場は素晴らしい景観だが、非常識なトレッカーのいるこのキャンプ場には、すっかり魅力がなくなった。

 ガイドのツアン君と馬方のリーダーであるテンジン・テイレイ(私達はビッグ・テンジンと呼んだ)と私の3人で、レルー村へ出かけた。既に、ガイドのツアン君は、レルー村の村長に挨拶をすませていたが、レルー谷の入会権を所有するレルー村にテント1張り・1日100ルピーで、入川料を支払っていた。村長によると、レルー谷には地元の村人がヤクの放牧に出かけるだけで、これまで外国人や他の村の人間がレルー谷に入った歴史がないとのこと。私達が、初めての外人登山者との村長の説明であった由。

 レルー村の売店の老人に、レルー谷について情報を尋ねたところ、左股は奥まで開けていて歩きやすいと。右股は、途中から大石が転がっており、馬でそれ以上行けないところありとの由。レルー村から見える山について、地元の人たちの呼称を教えて欲しいと頼んだところ次のような回答があった。

  P6071(R1) ・・・Skanglaya

  P5825(R36)・・・Usuchan

Camp Site at Bardan Gompa School P6071(R1)
Reru Camp Site and P6071(R1) P5825(R36)

8月18日(火):快晴。

 7:50/レルーキャンプ場 -  8:50./屈曲点 -  9:40/ジープ道路の終点 -  15:10/Sumudo = 二    股(N-33-13-30・71, E76-56-50・89, 4,177m)。

 今日は快晴で、レルー谷の屈曲点から二股のSumudoの奥に聳えるP5826(R27)とP6158(R26)の鋭鋒が手にとるように眺められる。レルー谷は巾150~200mの広く開けた明るい谷だ。左岸の台地の上を進む。ヤク放牧用の石小屋あたりまで、ジープ道がつけられていたが、ジープ道はここでストップ。何のために道をつけようとしたのか、ガイドも理解出来ないとのこと。屈曲点の手前より、P5947(R2)の頭が望まれた。Onkarから大きな支谷がKang La(5468m)の方に入っており、この支谷の右側にP6036(R3)とP6080(R4)の岩峰が聳える。支谷の出合い下は、平な草地となり、きれいな湧き水があって快適なキャンプ地だ。

 左岸にP5677(R14)とP5815(R13)の岩峰が現れる。岩登りの好きな岡部に、P5815(R13)はリッジから登るのか、フェースを直登する積もりかと楽しいやりとりをしながら進む。

 左岸台地は、結構アップ・ダウンがあり、土砂流の押し出しのゴロタ石の堆積があって、歩きづらい。前方の二股の奥のP5862(R27)とP6158(R26)の岩峰は、手にとるように直ぐ近くに見えるが、歩けども歩けどもいっこうに近づかない。これがヒマラヤのスケールの大きさだろう。二股のキャンプ適地に到着したのは、午後3時を過ぎてしまった。

 日本を出発以来既に12日間たっており、少し疲れが出てきているとも思えるので、天候の悪くなりそうな明日は休養日とすることにした。

P5947(R2=Right)、P6036(R3=Left) P5947(R2)
P6036(R3=Right), P6080(R4=Left) P6080(R4=Left), P6036(R3=Right)
P5814(R13=Left), P5677(R14=Right) P5677(R14)
Reru Valley with P5862(R27) and P6158(R26)

8月19日(水):曇り時々小雨。

 休養日だが、ガイドと馬方のリーダーのビッグ・テンジンに右股のテント地を偵察に行かせることにした。二人は二股より約2時間ほど歩き、氷河の舌端より手前にある唯一のキャンプ適地を見つけてきた。谷口、岡部、阪本の3名は、二股のキャンプ地での昼寝ばかりも退屈なので、10:08にキャンプ地を出て、約一時間ほど右股の左岸を歩いて12頃帰着。右股の奥には槍ヶ岳に似たP5825(R19)が聳え、その奥の氷河には左奥にP6110(R20)、そして右奥にP6111(R18)がでんと腰を据えている。

 右股の中程に、大きな岩がゴロゴロとかさなっているような斜面あり。馬はこの地点を越える事が出来ないので、その手前のエーデルワイスの咲き乱れる広い平な草地をテント地にしたいとのこと。このテント地の少し上流の流れの緩やかなところから、対岸に渡り二股へは右岸沿いに戻り、左股に入ることにしたいとの馬方の意見があり、これに同意した。

 馬方3人のうち、二番目の弟のテンジン・ナムダックがレルーへ下山した。マナリの学校にいっている子供達を、シンゴ・ラ峠越えで送って行くとのこと。馬方は、明日からビッグ・テンジンと一番下の弟のテンジン・ソナムの2人になるが、10頭の馬は2人で十分マネージ出来るという。

8月20日(木):快晴。

 6:55/二股キャンプ地 -  9:30/右股キャンプ地 -  11:15/キャンプ地 -  12:30/氷河舌端   -  14:40/氷河二股・P5825(R19)手前 -  16:40/右股キャンプ地(N33-11-51・95, E76-54 -58・18, 4,279m)。

 昨日歩いた右股の踏み跡をたどる。キャンプ地手前の岩陰にブルー・ポピー(青い芥子)が咲き乱れていた。この後、左股をたどり又ザンスカールの最深部へトレッキングに出かけたが、ブルー・ポピーを見たのはこの時のみであった。気象条件もそれほど変わらない筈なのに、何故レルー谷右股のしかもほんの限られた場所にしかブルー・ポピーが咲かないのか、謎である。

 9:30に右股キャンプ予定地に到着。エーデルワイスの咲き乱れる広い河原の快適なキャンプ地である。テント設営後、ロープ、アイゼン、ピッケル、ハーネス、スノー・バー等登攀用具と赤旗竿を用意して出発。

 ゴロタ石の丘を越えて、進む。前方にはP5825(R19)の「ザンスカール槍ヶ岳」、その左奥にP6110(R20), 右奥の氷河上に3つのピークが見えるが一番右がP6111(R18)と思われた。 ザンスカール槍ヶ岳P5825(R19)のかなり手前から左に入っている氷河あり、その奥の二つの鋭峰はP6128(R25)とP6088(R24)と思われた。

 1時間強で、氷河の舌端に到着。氷河は泥と落石で黒く埋められ、アイゼンやピッケルなしで歩けそうと判断。黒く汚れた歩き難い急斜面の氷河をクレバスを避けながら登る。クレバスを避けながらジグザグに登るので、時間がかかることおびただしい。氷河の状態は余り芳しくなく、クレバスが数多く開いている。既に、14:40になったので、これ以上の無理は危険と判断し、右股最奥部の偵察はここまでとすることにした。

 その夜は、ヤクの乾燥した糞を集め、焚き火をしてレルー谷のキャンプを楽しんだ。

P5862(R27=Front), 6158(R26= Back) P5862(R27=Front, P6158(R26=Back)
Right Branch of Reru Valley Blue Poppy on right branch of Reru Valley(2)JPG
Blue Poppy on right branch of Reru Valley Yaks on right branch of Reru Valley
Camp site on right branch of Reru Valley P6110(R20=Left), P5825(R19=Center) , P6111(R18=Right)
From left, P6128(R25=Left), P6088(R24=Right), R23, R22 On Right Branch Glacier, P6128(R25), P6088(R24), R23, R22 from left
Glacier tongue of right branch of Reru Valley

8月21日(金):晴れたり曇ったり。

 8:00/右股キャンプ地 -  渡渉 -  10:35/二股対岸の台地 - 14:30/左股第一キャンプ地(N33-12-16・69,  E76-59-11・20 , 4366m)。 

 キャンプ地の直ぐ上流の水流の弱いところを選んで、馬で渡渉する。私は馬方のリーダーのビッグ・テンジンに一緒に乗ってもらい渡渉した。右股右岸は、少しアップ・ダウンがある台地を歩くが、ごろた石の上を歩くので結構時間がかかり、二股の対岸まで2時間半程かかった。8月18日と19日に泊まった二股のキャンプ地のちょうど対岸にあたる地点も、広大なデルタ状の台地で、小さな池も点在する実に美しいところ。

 二股から左股に入って暫くしてから右岸に渡渉する。最初、馬で渡渉しようとするも、川底の石が丸くしかも苔でヌルヌルしていて馬が足を滑らせてあわや岡部が落馬しそうになった。馬方のビッグ・テンジンは、「危険だから、各自歩いて渡渉してくれ」と指示。かなり川幅の広い地点だったが、急流にストックをつき、慎重に渡渉。やはり、氷河融けの水は冷たい。渡渉後、2時間ほど歩いた地点に、清水のわき出る恰好のキャンプ地あり。左手にP6148(R35)の見える、素晴らしく景色のよいテント地であった。 

Edelweiss on right branch of Reru Valley Crossing the right branch of Reru Valley
Sumudo of Reru Valley

8月22日(土):晴れ。

 7:50/左股第一キャンプ地 - 10:30/左股氷河の舌端・氷河湖 - 偵察 - 13:00/左股第二キャンプ地 。

 今日は出来るだけ左股の氷河舌端に近いところまでキャンプ地を上げ、左股上部を偵察したいと、ガイドのツアン君と私達メンバー4名で出発した。約2時間足らずで氷河の舌端が見えるところに到達したが、それ以上先は馬の餌となる緑の草地がなく又キャンプ地に必要な清水が見あたらないので、第一キャンプから距離は少し短いが快適そうな場所を左股第2キャンプと決めた。

 ガイドのツアン君にテント設営を指示し、私達メンバー4名は上部に出かけた。氷河舌端には小さいながら氷河湖があり。氷河湖の左手には、P6148(R35)の岩峰が聳えている。

 氷河湖の向こうの氷河の右岸か左岸を登って、一段上の氷河に上がって、氷河の奥の山々を探査することも検討したが、氷河湖からでも、氷河最奥部が望むことが出来たので、あえて危険をおかして上部に登る必要はなかろうと判断した。氷河湖の左側の丘陵地帯に登り、左股最奥部の写真を撮ることにした。左股最深部の右にはP5944(R28)、左にはP5817(R29)の純白の秀峰をみることが出来た。

 左股のすべての山々を探査することは出来なかったが、初めての踏査行としては、十分満足行く成果が得られたと判断し、全員満足した気持ちでキャンプ地に下山した。

 ガイド、キッチン・スタッフ、馬方達も私達の今回の探査行の成功を喜んでくれ、大変楽しい夕食となった。 

Walking to P6148(R35) P6148(R35)
P6148(R35, P6007(R34=Rightest) Glacier Lake of left branch of Reru Valley
From glacier toungue of left branch, P5944(R28), P5817(R29) ,P5962(R31), P6077(R34)

8月23日(日):快晴。

 7:40/左股第2キャンプ地 -  14:30/Onkarの対岸キャンプ地。

 レルー谷探査も無事終わったので、浮き浮きした気持ちで下山の途についた。1時間ほどで左股第1キャンプ地に着いた。レルー谷左股は右股より、ヤク道がしっかりついて歩きやすい。二股からの下流も右岸沿いに明瞭なヤク道がついていた。二股の方を振り返ると、P5862(R27)とP6158(R26)の鋭鋒がそびえ立っている。今回私達は、無名峰ばかりのレルー谷の山々に、混同を避けるため暫定的な山名「R1」「R2」という仮称をつけたが、山を同定する上で大変有効であった。振り返ったP5862「R27」の中腹あたりのルンゼに、なんとなんと「27」という数字が雪で書かれているのをみて、余りにも偶然な因縁に驚いた。

 今回のレルー谷探査で、20座の6000m前後の山を同定出来たのではと思っているが、何しろ初めての谷であり、私達の観察に勘違いがあるかも知れない。今後この谷に入られる方々があり、私達の間違いに気付かれたら是非御指摘をお願いしたい。 

8月24日(月):曇り後晴れ。

 7:45/Onkar対岸キャンプ地 -  13:30/イチャール(Ichar)。

 ガイドのツアン君とチベット仏教について、彼の博識をいろいろ聴かせてもらいながら下山の途についた。ラダックは結構回教徒が多く、人口の約60%が回教徒との由。一方、ザンスカールは熱心なチベット仏教徒が多く、回教徒はたったの約6%しかいないという。だから、ザンスカールにはマニ石を積んだメンダンが非常にたくさんあり、その数はラダックの数倍以上もあるとのこと。

 ラダックやザンスカールのゴンパを訪れると、殆どのゴンパに必ず男女交合の壁画や像があり大変目につく。日本や他の仏教国でも滅多に目にしないこのような男女交合図が、何故あるのか、チベット仏教に詳しいツアン君の意見を聴いたり、空海が中国から持ち帰った理趣経について私が説明し、その関連性などについて意見を交換しながら歩いた。ツアン君の説明によると、男女交合像や男女交合図は、英文ではDeity(神)といわれ、チベット仏教では菩薩と同じ位に位置する尊い瞑想する仏(Meditation Buddha)であるという。 今回、レーでであって以来、この掲題について彼と意見交換をしてきた。彼との対話の中で、私は次のような自分なりの解釈をしてみた。

 「釈尊が菩提樹の下で体得された悟りとは、万物は因縁より生ずという真理の発見に他ならなかった。この大宇宙に生を受けた我々人間は、いろんな苦しみを持っている。この苦しみを絶つこと、四苦八苦の苦しみから解放されることが釈尊のとかれる解脱であり、サンスクリットでいうニルバーナ(涅槃)である。私達人間は、両親の男女交合により、この世に誕生した。両親が存在し、その二人のセックス行為があり、私の誕生。即ち、この大宇宙における因縁により、私達が存在するという認識は非常に大切である。一方、愛欲や性欲に執着することは、煩悩や苦しみの大きな原因となる。そのような執着から解脱して、悟りの境地にはいるように瞑想することを、このDeityを通じて私達に体得させようとのチベット密教の教えではなかろうか?」と私の未熟な見解をツアン君に述べた。彼は、大筋で私の見解に同意してくれた。チベット仏教徒でも男女交合図についてはキチンと理解している人間が少ないとのコメントであった。かなり、難しい宗教談義をしながら、ガイドのツアン君と楽しく歩くことが出来た。

 現在、パダムからシンゴ・ラ峠を越えてダルチャ迄通じる車道工事が進んでいる。この道路建設は、インド政府のBRO (Border Road Organization = 国境道路機構)という日本の国土交通省みたいな役所が管轄している由。工事期間が雪解けの6月から、雪が降る前の9月末までの4ヶ月程度と短いので、新道路建設は遅々として進まないとのツアン君の説明。

 レルーのキャンプ場は、トレッカーで騒々しいので、静かなイチャール迄足を延ばすことにした。イチャールでTsarap河にかけられた吊り橋で右岸へ渡る。個人の所有の土地とのことだが、Tsarap河の横の畑地を整地して作られ、湧き水の出ている緑の草地の気持ちの良いキャン場であった。

 今日で、レルー谷探査行が無事終了し、キャンプ地から見えるP6028を振り返り全員充実感一杯であった。 

3.「ザンスカール最深部トレッキング」

ザンスカール最深部地図(クリックすると地図が開きます。)

 ラダックやザンスカールには、多くのトレッキング・ルートがある。ザンスカールでは、ラマユルからパダムへ至るゴンパ巡りのルートと、パダムからシンゴ・ラ峠を越えてダルチャに至るルートが最もポピュラーとなっており、毎年多くの欧州人達が歩いている。

 私達が今回計画したタンタック・ゴンパからNialo Kontse La(4850m)とGotunta La (5300m)の二つの峠を越えて、Gianに至るザンスカール最深部のルートは、途中に村落が全くなく、且つゴルジュ帯の大トラバースがあったりして結構厳しいコースなので、余り多くのトレッカーは歩いていない。毎年数パーテイの欧州人の健脚組がトレースしているようだが、日本人でこのルートを歩いたという記録を私は知らない。

8月25日(火):晴れ。

 7:40/Ichar - 12:40/Tsetan。

 計画した予定より1日早く行程が進んでいるので、今日はのんびりと半日コースでTsetan迄とした。Icharを出てすぐに、Tsarap河沿のゴルジュ帯の道で狼の足跡を見た。ザンスカールには狼が多く、ガイドのツアン君は「これから私達が行くザンスカール最深部でも狼は数多くいる」と言う。崖の上に民家があり。その裏側の畑の中を切り開いた個人のキャンプ場が、今夜の私達の泊まり場だ。2年前を懐かしく思い出す。老夫婦と嫁と孫が、畑に出て草むしりをしていた。

 私達のコックのChonjorは非常に料理がうまく、毎日いろんな違った料理を工夫して作ってくれる。日本から持っていったゴマや、マヨネーズ等で、おしたしやサラダを教えると、すぐ翌日から自分の料理としてものにする才覚のある男だ。キッチン・ボーイのLobsanとJigmetも、親方のChonjorの指示をよくきき、実にこまめに働く気持ちの良い若者達である。

8月26日(水):曇り時々雨。

 7:40/Tsetan - 9:00/Surle - 10:20/Chaの対岸台地 -  2:00/Purne。

 Tsarap河沿いのゴルジュ帯の道は、殆ど変化がなく、いささか退屈する。Chaの対岸台地広場にメンダンあり。見事なマニが石あった。メンダンの向こうに、天然石に刻んだロック・ペインテイングの石が転がっている。大変素朴な絵で、南アフリカのドラッケンズ・バーグ山脈にあるブッシュマン・ペインテイングに非常によく似た感じだ。

 Tsarap河沿いは、結構谷風が強く、少し風が吹くと砂埃が舞いあがり、全身砂まみれになってしまう。2年前は、この砂埃で隊員6名全員が喉をやられた経験あり。

 Purneのキャンプ場は、売店とロッジを経営している村人が自分の敷地に作ったかなり大きなキャンプ場。2年前に私達が泊まった時にも、ポリ袋や空き缶などのゴミであふれかえっており、余りにも汚すぎたので隊員とキッチン・スタッフの全員でキャンプ場をすべて清掃したことあり。今回も、トイレの前のあたりは、ゴミの山。経営者の資質が全く駄目とがっかりする。どこの国にも、金儲けしか考えない品性のない人間がいるものだ。

Cha Tsetanの民家キャンプ場
Purne 手前のTsarap沿いの道 Purneへの吊り橋 
Purneのキャンプ場で昼寝をする馬たち

8月27日(木):晴れ。

 7:40/Purne - 9:00/プクタル・ゴンパ - 15:20/Yayth。

 Purne からプクタル・ゴンパ迄のゴルジュ帯の道は、2年前は土砂崩れなどでかなり荒れていたが、その後相当補修された様子で、随分と歩きやすい安全な道になっていた。

 天空にそびえ立つプクタル・ゴンパは、何度見ても荘厳だ。しかし、洞窟の中にあった自然の本堂をなくしてしまい、木造の建物を洞窟の中に建設中なのを見て失望した。若い僧達が台所でバター茶を飲んでいけとすすめてくれ、喜んで御馳走になった。

 プクタル・ゴンパから一度台地にあがり、少し行くと、ゴルジュ帯の高巻道が続く。靴巾2つぐらいの細い道で、時には崩れて靴巾1つくらいしかない嫌なところもあり。足を踏み外せば、50 - 60メートル下のTsarap河へ真っ逆さまに転落しそう。気の抜けないトラバース道が、うんざりするほど続いた。Yaytahへは急な坂道を登って広大な高原状の台地にあがる。ここにキャンプ地があると思っていたが、水場が全くないのでキャンプ地にはならないらしい。台地から一段おりた斜面にしがみつくような傾斜地に、湧き水があって、そこがキャンプ地になっていた。勿論民家もなにもなし。キャンプ地の向かいのTsarap河対岸の山は、日本では見られないような特異な岩壁の山であった。

 今日一日は、かなりハードな長い行程であった。馬方の次男のニアダックが昨日マナリから戻ってきて、今日から我々の遠征隊に復帰。長男のビッグ・テンジンが、今日から息子達をマナリに送って行くとのことで、次男・長男の入れ替えとなった。ニアダックの帰隊を祝して、隊員、ガイド、馬方、キッチン・スタッフの全員でパーテイを催した。アルコール抜きなのがいささか寂しかったが、なかなか良いムードのパーテイだった。

天空のプクタル・ゴンパ プクタル・ゴンパの僧達
プクタル・ゴンパよりTsarap河の上流へ ザンスカールの変化に富んだ山の色
ザンスカールの面白い砂岩 ゴルジュが延々と続く
一歩誤れば50-60m下の谷底へ 気の抜けないゴルジュ帯
Yaytahのテント地  Yaytah 対岸の特異の山

8月28日(金):晴れ。

 7:35/Yaytah - 9:30/Sumudo - 10:20/Kyulti。

 Yaytah のキャンプ場からTsarap河ゴルジュ帯の台地に降り、ゴルジュ帯のトラバースとなる。靴巾2つぐらいの狭いトラバース道がつづき、崖下に落ちないようにと、緊張しながら慎重に歩く。右手から支谷のNialo Kontse 川が入ってきて、橋がかかっており、これを越えてタンタック・ゴンパの方へ。橋を越えると、谷巾はいっぺんに広くなり、ゴルジュ帯から、開けた明るい美しい谷となる。タンタック・ゴンパの近くには、良い水場がないとのことなので、広い河原の柳の林の中をキャンプ地とすることにした。今日も半日行程だが、年寄りにはゆったりしたスケジュールでの体力維持が大切だ。洗濯、読書、昼寝とそれぞれ好き勝手な午後を過ごした。

もう少しでゴルジュ帯を抜けられそう 美しいKyultiのキャンプ地

8月29日(土): 快晴後曇り。

 7:35/Kyulti -  8:30/Tantak - 11:00/Shade - 13:10/Tantak Gompa - !4:35/Kyulti。

 今日は、タンタック・ゴンパとザンスカール最奥のシャデー村への日帰りハイクングだ。タンタク・ゴンパは帰路に立ち寄ることにして、先にシヤデー村へ向かう。シャデーへの支谷のゴルジュ帯を抜けると、清い小川が流れ美しい花々が咲き乱れる明るい開けた谷となる。ゴルジュ帯のすぐ上の崖に、自然のマウンテン・ゴートの群れが歩いていた。

 シャデー村は、戸数約20軒、人口約70人のザンスカール最奥の山村だ。一昨日、インド政府の教育関係の役人三名が、Purneからシャデーヘ馬で出かけて行った。シャデーに分校をつくるかどうかの、事前調査が目的だったらしい。

 畑仕事をしている家族達がいて、挨拶を交わした。シャデーの村の中を歩いて見たが、丘陵地につくられたチベット風民家が密集していて、ちょうどアルジェリアのカスバの中の路地を歩いているような感じがした。

 帰路、弁当を持参したキッチン・スタッフと出会う。彼等もシャデー村の見学に行くという。コックのChonjorは、毎日私達隊員4名と、ガイドのツアン君のために弁当を作って持たせてくれる。チャパテイか揚げパン、スライス・チーズ、ゆで卵、ゆでジャガイモ、板チョコレート、ジュース等を取り合わせたなかなかしゃれた美味しい昼食である。

 帰路、タンタック・ゴンパに立ち寄る。この近辺の畑地や放牧地はすべてプクタル・ゴンパの傘下のタンタック・ゴンパの所有になっている由。ゴンパの管理人や、シャデー村の住人でゴンパの所有地を使わせて貰っている人たちが、収穫した作物の一定率をゴンパに納入する契約になっているとのツアン君の説明。ゴンパ自身は、常住の僧はおらず、大変に小さな質素なお寺であった。 管理人の奥さんから、バター茶を御馳走になった。シャデー村からの帰りに一緒になった美人のお嬢さんは、娘さんとのこと。

シャデー村手前の花咲きにおう小川 ザンスカール最奥の村シャデー
カスバのようなシャデーの民家 シャデーの民家
シャデーの子供 タンタック・ゴンパ.
タンタック・ゴンパ管理のご婦人と

8月30日(日):晴れ。

  7:35/Kyulti - 8:30/Nialo Kontse 川三俣 -  10:20/Nialo Korokoro キャンプ場 - テント設営-  Nialo Korokoro CS -  13:40/4550m  -  14:20/Nialo Korokoroキャンプ場。

 Kyultiから二つの峠を一挙に越えて、Hormoch迄1日で歩くのは年寄りには厳しすぎる行程と判断し、Nialo Kontse Laの手前の水の得られるKorokoro迄足を延ばしておくことにした。Kyultiキャンプ場からNialo Kontse川の橋まで戻り、峠に向かって登る。3時間足らずで、Korokoroに到着。小さな湧き水のある、斜面のキャンプ地だ。キャンプ地内を歩きまわるには、斜面なので不便だが文句は言えない。幕営後、高度順応を兼ねてNialo Kontse La の手前までハイキングに出かけた。4500m前後から、草は紅葉し始めていて秋の気配。紅葉の美しい、気持ちの良いカールだった。

Nialo Korokoroのキャンプ場 秋の訪れを感じさせるNialo Kontse La手前

 8月31日(月):曇り後雪から雨。

 4:30/Nialo Korokoro -  5:38/Nialo Kontse La -  8:00/最低鞍部 -  11:00/Gotunta La  - 15:00/Hormoch。

 2つの峠越えになるので、出来るだけ早朝に出発したいと、早朝4時の朝食を指示した。

 コックとガイドは、「自分たちの足なら6時間。あなた達でも5時の朝食でも十分では?」との意見を述べてきたが、「私達は70歳前後の年寄りで、歩くスピードは君たち若い人たちに較べて極端に遅い。今日の行程なれば、私たちの足でどのくらいの時間がかかるかは、私達が自分で計算出来る。安全登山のために少しでも早く出発したいと考えているのだから、隊長の私の命令には素直に従って欲しい。」と厳しく指示した。翌朝は、キッチン・スタッフ達は3時前から朝食と弁当の準備にかかり、3時40分頃には「朝食の準備が出来ました」と声をかけてくれた。既に、隊員4名とガイドは、各自のテントを自分たちで撤収して荷物の準備も終わっていたので、すぐに食事にかかり、予定より早い4時30分にキャンプ地を出発することが出来た。非常にチーム・ワークがうまくいっていることに、安心し満足した。

 出発前から空模様が怪しくなってきたが、予定通り出発した。今日二つの峠を越えておかないと、へたをすると雪で暫く越えられない恐れがあるので、是非今日中に峠下まで降りてしまいたい。峠までは、既に高度順応も出来ているので、非常に良いペースで登ることが出来た。峠の手前で、雨がぱらつき、雨具を着る。ガスで視界のきかない峠についたが、風がきついので直ぐに出発。Nialo Kontse La からは、広い高原のような稜線を最低鞍部まで降りる。ガスで遠景が全く見えないのが残念だ。晴天だったらきっと素晴らしい光景が展開されたことであろう。最低鞍部から、Gotunta La迄は結構距離があり、かなり複雑な地形で、また小雪も降り出し意外と時間がかかった。Gotunta Laからの下りは、崖斜面のトラバース道が続くが、雨で濡れた道を10頭の馬が歩いたので、細いトラバース道がどろどろになっていた。「滑らないか?」と、ヒヤヒヤしながらの気の抜けない下りだった。

 峠をほぼ下りきる地点に、世にも不思議な幻想的な谷が現れた。氷河の後退で出来たのか、複雑な侵蝕活動の結果で出来たのかは解らないが、いろんな色の砂岩で怪奇な模様の丘や岩柱が甲子園の何百倍の広さの盆地に展開されていた。天候が悪く、霧でぼやけてしまっていたが、晴天ならきっと楽しめたところだったと思う。

 雨で、雨具だけでなく、ダッフル・バッグもすべてびしょぬれになった状態で、Tsarap河のほとりのHormochに15時に着いた。

 このトレッキングでの大きな山場を越えられて、ホッと一安心。Hormochには民家がなく、直ぐ下流の対岸にYurshinという村落があるが、数年前に全住民がこの地を捨てて移住してしまい廃村になっているらしい。Kyultiであった若いカップルは、少し上流で幕営したという。 

濃霧の中をGotunta La (5100m)から下山 Gotunta La下の幻想的な谷間
幻想的谷間の不思議な砂山

9月1日(火):晴れ後時々曇り。

 7:40/Hormoch  -  10:35/Tichip。

 予備日が2日余っているので、今日はのんびり短い行程で行くことにした。全く動かない完全休養より、むしろ数時間歩いて身体を慣らし、且つ変化をつけた方が良かろうとの谷口と私の判断である。Tsarap河右岸の台地をのんびりと歩く。途中、民家が何軒かあったが、すべて放棄した廃村であった。住居跡の畑地が、なんとなく侘びしい。

 Tichipで支流が合流。若いカップル二人と馬方達は、Satok迄足を延ばしたいと、私たちを追い越して二股上の支流を渡渉していった。明日の朝の渡渉地点を確認した上、Tsarap河の広い砂地にテントを張り、午後はのんびりと洗濯、読書、昼寝の休養日となった。私たちのような年寄りには、連日7~8時間の行動と言うのは非常にきつい。3~4日に一度は、半日行程の楽なスケジュールとし、のんびりと自然を楽しみ、キャンプ地で静養することが次の活力を生む源になるのではと私が考える。今回は一人にテント1張りと言う計画にしたのも大成功であった。メンバー4人に対し、トレッキング会社が3~4人用のテントを2張り準備してくれていたが、谷口と私は日本国内で愛用している3~4人用の軽量のアライ・エアライズ(本体、フライ、ポールで合計約2.3kg)を持参した。

 岡部の誕生日は8月19日であったが、みんな忘れていてお祝いを出来なかったので、この夜に彼の誕生パーテイを開くことにした。私とコックのChonjorで夕食の準備をし、全メンバー、ガイド、キッチン・スタッフ、馬方の全員10名で楽しい夕食パーテイを持った。残り少ない食材をうまく利用し、コックは最高の夕食を準備してくれた。食事後、Tsarap河のほとりで、集めてきた枯れ木で大キャンプ・ファイアーを楽しんだ。ちょうど満月の日で、岡部にとっては思い出深い68歳の誕生会になったことだろう。

Tichipのキャンプ場 芸術的模様の山

9月2日(水):快晴。

 7:30/Tichip - 10:00/Mune Le - 12:15/Satok。

 今日も半日行程の、のんびりしたスケジュールだ。朝一番に出合いより少し上手の支流を渓流足袋をはいて渡渉した。早朝なので、それほど水流はなかったが、それでも膝下ぐらいまで水につかると本当に冷たい。

 小さい丘をなんどか越えて、右岸台地を歩く。ビャクシン(現地語でシュクパ)の大木が結構目につく。この辺のビャクシンは非常によい匂いだが、ダルチャやマナリあたりのビャクシンは香りがなくて駄目だとツアン君が言う。Mune Leも住民が村を捨てて降りてしまい、完全な廃村。マニ石を沢山積んだメンダンが、寂しく残っているのみ。

 Satokも、遠くから眺めると広大な畑地がある素晴らしい村。しかし、この村も4~5軒の家と尼さんの住居があり合計20名ぐらい住んでいたらしいが、今や住人もいない寂しい廃村となっていた。廃屋の横の空き地にテントを張り、宿泊した。

廃村Satok 廃村Satokで幕営

9月3日(木):雪後雨。

 完全休養の停滞日。

 朝6時の朝食の予定だったが、5時頃から小雨がふりだし、小雪に変わってきた。

予定通り朝食をすませ、取り敢えず、8時まで天気待ちをすることにした。雨はいっこうにあがらず、対岸の山も4500m以上はみるみる雪で真っ白になっていく。キッチン・スタッフ達はまともな雨具、防寒衣、手袋も持っておらず、無理をすると事故につながる危険性が強い。未だ、予備日が1日残っているので、今日は無理をせずSatokに停滞すると、8時前に決定した。私の判断を聴いたLobsan達キッチン・スタッフは、ホッと安心したような、嬉しい顔をしていた。

9月4日(金):晴れ。

 6:40/Satok - 8:20/峠 - 11:35/Lahaulの対岸の峠 - 13:50/Tsok Mesik。

 今日はかなり距離の長い行程なので、6時朝食とした。キッチン・スタッフ達は、今日は昨日とはうってかわっての晴天なので大喜び。まわりの山々の4500m以上は、すっかり雪化粧をして真っ白になっていた。歩き出してそうそうに、Mountain Goatsの群れが、山の中腹を歩いているのを、ガイドのツアン君が見つけた。彼は本当によい眼をしている。

 今日は、それほど危険なトラバースもないが、幾つも小さな峠を越えねばならない。1時間半ほど歩くと、4300m程の峠の上に出て、山容ががらりと変わってきた。チベット高原的な風景の中に、大きなライオン岩が聳えている。エジプトのスフィンクスそっくりなので、私たちは「Zanskar Sphinx 」と名付けた。ザンスカールは造山活動が活発だったのか、いろんな形の岩や、面白い模様の石がたくさんあって、興味がつきない。

 今日は沢通しに歩けないので、100~150mの丘陵地帯の上り下りを何回も繰りかえす高巻きルートの連続だが、危険な箇所は全くないので行程がはかどる。開けたチベット高原的な山容が多くなり、圧迫感がなくなってきて、気分的にもゆったりとして歩ける。

 意外と早い時間の2時前に、今日の泊まり場のTsok Mesikに到着。ゆったりと流れるTsarap河の川辺にある柳の林の台地で大変気持ちの良いテント地。勿論、人の住んでいる人家も村もないところ。後に岩山があるが、圧迫感もなく、のびのびとした気持ちになる。午後は寝袋をほしたり洗濯に忙しい。夕食後、また枯れ木を集めてキャンプ・ファイアー。もう、日本の山