春山合宿 毛勝三山より剱岳

1955年3月1日~31日 (京大山岳部報第5号より)

(訂正:上記写真中、「C V撤収の朝」は正しくは「C Vをあとにした夕方」です。)

計画の背景(脇坂 誠のまえがきより抄録):     [ ]部分は高村が略記。

 越中の海岸から夕日を背にして眺める山々――平野からそそり立つするどい剱岳と優しいやまなみのつくりだすスカイラインは、私の思い出の中になくてはならないすばらしい背景だ。私にとっては故郷の山、毛勝岳の頂に足を運んだのは昭和二十一年の五月だった。 [このとき脇阪は阿部木谷の急な雪渓をのぼりつめて、剱岳のスケールとその頂につづく起伏-変化の多い稜線を目のあたりにして、いつかはたどることを心にちかった。戦後発足した京大山岳部は、昭和22年ブナクラのコルから剱岳を計画するが、部員や装備がそろわず挫折、昭和27年春にはブナクラのコルに支援隊をあげ、毛勝岳から剱岳の縦走を計画したが、これも当時の部の予算では実行不可能となり、遠見尾根に変更された。その後北海道知床遠征(1952年12月)、アンナプルナ遠征(1953年秋)があり、この計画は埋もれたままになっていた。]

 昭和二十九年四月私とOB平井とで毛勝から剱岳のラッシュによる計画を立て昭和三十年三月実行することにしていた。同時に現役の長老?(かれらは医学部学生なので六年間部生活をした)リーダ斎藤、中島(道)が部生活の総決算として同じ計画をやる気持のあることを聞き、前記OB二名と現役部員とが合流してこの計画を行う事とし、方法としては極地法による事にした。

 わが国で極地法登山をはじめて本格的にとりあげたのはわれわれの先輩で、昭和7年冬季の富士吉田大沢からの登頂であった。戦後は早稲田のぺデカリ遠征のあと各大学山岳部がこぞってポウラを試みている。これについて私は極地方は完璧なラッシュ技術を基礎にはじめて完璧な成功をおさめるものだと思う。ヒマラヤ遠征のためにポウラを練習する必要はあるのか? 1953年AACKのアンナプルナの隊員はラッシュで活動してきたものばかりであるが、水ももらさずぬ、かつ完璧なポウラをやることができた。ただ現状のように山岳部にリーダー級が割合少なく下級部員の多いときは、新人養成の一つの方法として、ポウラはある程度の実をあげることができるというのは今度得た結果であった。ただポウラ-極地法登山-をこのような手段に使うのは邪道であるが。

 なお今回我々がアンナプルナでも経験しなかった無電の使用をこの機会に試みる事は、この計画にさらに一つ課題を加えることになったが、今後の遠征に於いては必要を感じるであろうと思われたからである。

計画の概要と記録 (酒井敏明): 

隊長 脇阪 誠(OB)副隊長 斎藤惇生(医4)

総務 中島伊平(経4)酒井敏明(文3)

装備係 平井一正(OB)高村泰雄(農2)潮崎安弘(工1)高野昭吾(工1)

食料係 並河 治(農4)田附重夫(工2)荻野和彦(農1)岩坪五郎(農1)

気象係 高谷好一(工3)

無電係 松浦祥次郎(工1)高田方一郎(法2)

医療係 中島道郎(医4)薮内卓男(文4)

会計係 笹川和朗(経2)小池裕策(農2) 

1955年3月2日 

 春の訪れるに遅い北陸路とはいえ、さすがにその近きを思わせて息づきたくましい魚津の町から、生命あるものすべてが、まだ雪と冬の支配下にある片貝谷の懐へ入っていったのは、目には眩しいが肌に感ずるに弱い陽光ふりそそぐ、快晴の一日であった。東と南の空を限る白銀の峯々は、我々の送るベルグハイルに非情の仮面で答える。我々が再び街におりるのは、一ヶ月先のこととなるだろう。

[魚津では日本山岳会会員 大野一郎氏宅で朝食をいただいたあと、同氏の配慮で約二百貫にのぼる装備、食料はオート三輪を雇いあげ片貝小学校山女分校まで運び込んだ。

ここからはそれぞれ十貫ほどの荷を背に、村はずれからはスキーをつけて第4発電所を経て東又谷の取入の小屋にいたり、そこをベースハウスB.H.として以後ひと月のあいだ使わせてもらった。小屋の主人 慶伊さんの仕事は、谷の水量と雲量の目視観察であったが、電気風呂の使用はじめ大勢の隊員はなにかとお世話になった。

以下に登山計画進行の状況を略記する。]

各キャンプの設営日と位置 (キャンプ配置略図参照 山岳部報告五号より)

CⅠ(ポウラテント 12人用) 3月6日 毛勝西北尾根上1940m 

阿部木谷の宗次郎谷出あいにおりる支尾根(とりつき:t尾根)の樹林帯を輪かんで登り西北尾根1420mの窪地を中継デポ地とした。後発参加した9名含む20名でCⅠに全物資を集結したのは3月10日。なおt尾根は前年秋、左右田、高村が偵察して登路に適すると判断した。 

CⅡ(カマボコテント 6人用) 3月11日  釜谷山こえて100メートル

西北尾根から毛勝山~猫又山の尾根すじは輪かんじきの世界、さいわい好天でルート工作、重たいボッカは順調にすすむ。なお次のCⅢを設営するあいだに、中継キャンプとして猫又山上に避難用の雪洞をつくった。 

CⅢ(AACK 6人用) 3月16日 ブナクラのコルこえて50m上

ブナクラのコル通過は、この計画の一つのポイントであったが、偵察隊によって三か所にフィックスザイルが取り付けられた。

CⅣ 白萩山(AACK 6人用)3月17日 

赤谷山へははじめ輪かん、あとアイゼンですすむが白萩の最低コルにつくころ、雨をまじえた荒れ模様となりここに設営。

この夜、CⅢCⅡの間で無線による連絡が成功した。 

翌日の悪天は停滞して、19日は無風快晴。斎藤、高谷は赤ハゲ、白ハゲともに慎重にアイゼンを蹴りこんで通過、大窓にはルンゼをくだり、コルから頭手前まで偵察した。この日は好天のなかCⅡ、CⅢ、CⅣのあいだで最後の荷揚げがさかんにおこなわれたが、脇坂隊長も白ハゲの上まで上がり、空には中日機が飛来して幾度も旋回して乗員が手を振るのが見えた。

CⅤ 大窓の頭下(KUAC 3人用)3月22日

20日~21日 天候は荒れて、上部では湿雪、CⅠでは雨、いずれも停滞。

22日 天候回復し、周囲は2000メートルの高さで雲海に囲まれている。アタック隊の酒井、高谷の2名と斎藤は気温低下でクラストしたところを、池平山の手前、大窓の頭下にCⅤを設営。下部のキャンプ間はなお荷揚げする一方、CⅠでは平井、田附が撤収時にそなえて、融雪のために調整が必要になったフィックスザイルの再固定作業にかかる。

計画は大詰めに近づいたが、23日は再び風雪、各テントともに沈殿。このときCⅢで薮内が小池たちとポーカーに興じ、書きとめた詞は、後日に本多勝一が作曲して「沈殿の歌」として歌い継がれた(山岳部報5号 15ページ)。

アタック隊の行動:

24日 CⅤでは早朝小雪のち晴れでアタック隊ふたり(酒井、高谷)はすこし遅れて7:30出発。

(携行装備 ザイル30mミッチランガー3本、ハンマー1、カラビナ6、マウエルハーケン3、アイスハーケン3、大型携帯燃料2カン 食糧 乾パン3食、非常食1、コンデンスミルク、ヨーカン、甘納豆など)

 新雪深く、偵察時のルートは消えてワカンで、最後の80メートルは2ピッチをワンアトアタイムで小窓につくが暑い。Y状ルンゼまで深い雪をかきわけて行き、その末端に近い雪壁を登る。このルンゼの7分目に達したころに、大窓の頭の三つの人影現れて、カエレ、モドセエと聞こえる。しかしこの機会を逃すと再挑戦は疑わしい、今日中のCⅤ帰着は不可能とは暗黙の了解済みだと、アタック隊は登行続行と決断した。以後三の窓におりる雪のルンゼ、小窓王の岸壁スノウバンドの部分に、ハーケンを打ち込んでザイルを固定しつつ、三の窓コルに16時着。池谷乗越までワカンのラッセル、長次郎頭の雪稜を少し進んで、池谷に面したせまい緩傾斜地をピッケルで掘り、あまり快適でないビヴアークプラッツ(Ⅰ)とした。ザイルと尻当てを敷いているが、冷たさに耐えきれず15分おきに尻の位置をずらして朝を待つた。

25日 出発7:20―8:35剱岳頂上-9:40ビヴアーク地(Ⅰ)―10:10池谷乗越 ここで雪崩で流され停止10:20―三窓12:20

 長次郎コルまで膝までラッセル、ナイフリッジの山稜は雪庇の発達する余地もない。剱本峰へはときおりアイゼンのツアッケ利かせ、さいごは視界をぼんやりと限る早月尾根をみながら頂上に立つ。ふたりは無言で握手。「毛勝から剱へのトレイスはここに完結したのである。」

 雪降り続くなかを二人はアタックキャンプに戻りつき、荷物をザックに詰めて帰途につく。池谷乗越まで降り、二、三歩池谷ルンゼにおりかけたが腰までもぐり、これはいかん! 立ち止ろうとしたところ、足元から大雪崩、恐ろしいスピードで埋められたり表面に出たりしながら、雪崩とともに流される。一瞬、三窓と小窓王の岩峰が視野を横ぎり、ザックを外そうともがくが駄目、流れが大きく左へ曲がったなと意識は明瞭だがどうすることもできない。さいわいスピードが緩くなり完全に停止する。酒井は足を下に仰向けの姿勢、起き上がって見まわすと3メートルばかり右をやはり頭を下に高谷がスルスルと流れてきてとまった。大丈夫かと声をかけると、おお大丈夫だと答えてゆっくり起き上がった。

 ふたりは高距300メートル以上流されたが、左岸から谷が合流する地点で傾斜がゆるいのが幸いしたが、そのすぐ下は切れたった谷に滝がかかっていた。高谷はピッケルを流され、酒井のピッケルは上から2/3のあたりで折れてしまっていた。

 見上げる雪の池谷の沢身は雪崩のあとでテラテラに光って恐ろしく、右岸の縁についた雪をワカンをつけてゆっくりと2時間かけて、三の窓に登りついた。心配しているCⅤと連絡がつけばと、往きにフィックスザイルをつけた個所を通過して肩のコルにでて、声を限りにコールをかけたが、強風にかき消されるばかり。雪もちらつき始めたので、コルから三の窓よりに10メートルほど戻った雪の斜面に、二度目のビヴアークのため雪洞を掘る。すぐに岩が現れ居住性が悪いうえ、すでに食糧も乏しく、またもや悪魔の訪問を受けた永い夜を過ごした。

26日 アタック隊CⅤに帰る 斎藤

 長い夜がやっと明けた。最悪の時は小窓、さらにその先に雪洞を掘り、救援作業をする予定で出発準備を完了した頃「ヤッホー」のコールを高村が聴きつける。空耳かと思ったが、次のコールは天の啓示以上の響きで二人の耳に飛び込む。兎に角彼らが声を出している。小窓の上に来ると、Y状ルンゼを下って来るのが見える。小窓に着いてお茶を沸かして待つことにして、高村を迎えに出す。彼らはルンゼの中ほどをゆっくりと慎重に下りて来る。果たして登って来れたであろうか。二人の生命さえ無事ならば頂上はどうでも良いと思うものの、彼らの元気らしいのを見ると一寸気になり出す。二人を迎える感激の一瞬。ゴッグルを首に下げた高谷が真黒な顔で「只今!登頂成功」とニヤリと笑う。そうかそうかと八本の手が交錯し合う。

27日 CⅤ撤収 そして山の終わり 中島道郎

 朝が来た。6時。2夜のビバーク大雪崩に悩まされながらも、とにかく帰って来た二人は共によく眠っている。これから始まるあの長い稜線の帰途――安易な感傷に浸ってはならない。『起きろ!撤収だ!』食糧はあと1日を残すのみ。―中略―CVよさらば!

 行手を見下ろせば今しも二つの人影が赤はげ山から大窓へ下りて来る所。斎藤と薮内。大窓で腰を下ろして我々を待つ風情。「急いで下りようぜ」心も身も、とゆきたいが、一人は捻挫、一人は雪盲。メクラとイザリの道行、甚だおぼつかない。

30日 CⅠの撤収、さらにBHからの荷下ろしを完了、第四発電所に隊員は集結して、今日で合宿を終わることになった。発電所では社宅をそつくり提供され、電気風呂に浸りつつ輝かしい山行も遂に終わったかという感慨にふけるのはいつものことながら又よいものであった。

31日 発電所の人々にサヨナラを告げる。第二発電所までオート三輪。新聞記者。黒谷でバス。魚津の大野さん宅で又もやお世話になって、これですっかり山は終わった。

あとがきのむすび 酒井敏明

 我々はたたかうべくしてたたかった。言い知れぬ満足感を抱いて我々が片貝の谷をおりた日、毛勝のドームは春の陽に輝き、剱の岩壁は毅然として雲間に聳えていた。一つのたたかいは終わったのである。

本稿は本年3月調査旅行の途次、インドで急逝した高谷好一さん(1952年入部)の追悼の気持ちを込めて記した。セピア色の写真は、先年会員藤本栄之助さんの肝いりで、毛勝〜剱計画のメンバーが集まった機会に、高村が保存していたフジカラースライドからプリントしたもので、高谷さんほかに進呈した。 高村 奉樹

以上

当時のことについて二、三の補足

無線機のこと:

 北陸電力の協力で3台の無線機を1台は魚津におき、2台をCⅠ以上で試用した。当時の本体およびA、B電池は重く、苦労してCⅣまで持ち上げたが、地形や機器の故障のためほとんど役に立たなかった。計画中頃に1台故障、ただ一人アマチュア無線資格をもつ高田が富山にでて修理のうえ、15日にBHに届けてから所用のため下山。その後下部テント間の通信は再開したが、18日以後は交信不能。無資格者の利用が電波管理法違反で差しとめられたらしい。

春山合宿会計報告:

 支出は、食料、装備、荷揚げ費用など約15万5千円、収入は合宿費9万円(5千円/人×18)、部費より約4万円、借入金3万円 計約16万円であった。なお合宿費5千円は、当時の下宿生のひと月の食費代よりはるかに安かった!