安全登山を志す者の普段の健康法

日本登山医学研究会代表幹事 中島道郎

 

§1 はじめに

吹田さんから『登山者の健康管理』というテーマで講演を頼まれたとき、登山中の健康管理と勘違いし、登山の指導者たる皆さんがたが、昨今流行の中高年登山者を相手に講義をする場面を想定し、そのつもりで資料を用意をしたのですが、しかし、先日竹内ピラさんが亡くなってのお通夜の席で、なんで東京の会員ばかりが次々に亡くなって行くのだ、東京の空気が悪いんじゃないか、といった話に進展していった、という話を聞いて、あ、そうだったか、みなさんの関心事は、普段から自分の健康にどのように気をつけたらよいか、ということだったのだと気付きました。で、配ってもらった資料は、それはそれで適宜参考にしていただくことにして、本日は皆さん各自の普段の健康保持法についてお話ししましよう。

 

§2病識・病覚を持つこと

自分の体は自分で守るしかない、という覚悟を持つことが出発点です。その為には、身近な病気に対する最小限の知識は身につけておかねばなりません。世の中には、自分の体のことしか関心のない人もあれば、全く無関心で、病気は別世界の話だと信じきっている人もあります。その真中で、常識程度には病気を知っていなければ自分の身は守れません。

自分の体のことを心配しすぎてはいけませんが、最小限、自分は今病気を持っているかいないか、持っているとすれば、それはどういう病気で、普段どうしていればよいか、またそれに対して、今日の体の調子はどうなのかくらいは常に気をつけていてください。

今病気がなくても、周りの人を参考に、例えば生活習慣病とはどんな病気で、その病気にならないようにするにはどうするのか、位はいつも興味を持っていてください。

 

§3 普段のトレーニング

愉快に心地よく登山したいと願うなら、普段のトレーニングは欠かしてはなりません。とはいえ、特別なメニュウは要りません。基本は『歩く』ことです。エスカレーターとかエレベーターには乗らない。出勤・買い物等のお出かけでも、歩くことを基本にします。毎日のジョギングはベターだが、決して無理しないこと。

腹筋運動・縄跳び・ストレッチ体操などもお勧め。少しづつでよいから、持続させることが大切です。

 

§4 タバコの害 

およそ登山に限らず、まともにスポーツを楽しみたいと思うならば、タバコは吸ってはいけません。特に1度でも狭心発作や脳卒中を経験したならば、もはやタバコは絶対に吸ってはなりません。それでも吸う人がありますが、それは自殺行為です。その人が突然死をしたからといって同情の余地はありません。私が、病識・病覚を持て、と言うのはそういう意味です。また、タバコは慢性気管支炎・肺気腫の直接の原因であり、舌癌・食道癌や胃潰瘍の誘因でもあります。自動販売機でタバコを買うという行為は、実はそれとセットで病気を買っているのだ、と知らねばなりません。

 

§5 飲酒の問題

普通、酒が健康に悪いとされるのは、アルコールが肝臓を障害するからですが、それは、勿論個人差は大きいですが、日本酒なら3合、ビールなら大瓶3本以上を毎日飲み続ける場合の話であって、酒なら1合、ビールなら1本以下の場合は問題にならないとされています。また、毎日のみ続けるのが良くないのであって、週1〜2日の、いわゆる休肝日を持てばそれほど心配しなくてよい、とも言われます。

しかしそれとは違って、酩酊すなわち急性アルコール中毒症の方は、アルコールそのもの、ないしその中間代謝産物たるアセトアルデヒドが、脳細胞の酸素取り込み機能を妨害することから生じてくる精神障害、つまり脳の低酸素症なので、高所では症状が顕著に現れます。山上において、低地では酔わない筈の飲酒量で酩酊して転倒したり転落したりという事故が多いのはそのせいなのです。

人類にとって、高所環境とは海抜2,000m以上の場所を言います。つまり人は海抜2,000m以上の高所では飲酒すべきではありません。素面なら起こらない筈の高所脳浮腫が起こる危険性があります。

 

§6 何らかの持病のある人の登山について

 現在何らかの疾患を持っている人は、登山の可否を自分だけで判断せず、必ず主治医に相談して決めてください。相談すれば反対されるに決まっている、ときめつけて主治医に無断で山に行く人が多いと聞きます。相談の上で反対されたら諦めるまでで、はじめから全然相談しないのでは突然死も当然です。

a)                心疾患:

登山中の突然死症例について

先日ここ京大会館において、松林さんの主宰で、第22回日本登山医学シンポジウムが開催されました。わがAACKから平井・北村・岩坪・上田・安成・横山の諸君がそれぞれ非常にいい話をしてくださって、大変有意義なシンポジウムでしたが、その席で、信州大学の小林俊夫博士の報告に、山での突然死9症例を検討したところ、9例中8例は心臓死、1例が脳死で、心臓死8例中6例が心筋梗塞、1例が不整脈、1例はペースメーカー装着中の事故、とありました。

我がAACKでも、最近登山中に突然死した森本・岩瀬両君もその例に洩れません。そもそも本邦におけるスポーツ中の突然死の症例数は、ゴルフ中というのがダントツ一位で、登山中というのは五位だそうです。

心臓性突然死を予防するには

突然心停止が起ることを昔は心臓麻痺といいました。そのほとんどは心筋梗塞です。心臓を養っている冠動脈の血流が途絶して、心筋細胞が酸素不足に陥り壊死する現象です。今一つ心筋が酸素不足に陥る原因に狭心症があります。こちらは冠動脈が攣縮を起こして細くなり血流が少なくなる現象ですが、血流途絶には至らないものを言います。途絶したら梗塞です。つまり心筋梗塞の原因は、血管内腔が閉塞するほどの極端な狭心発作か、冠動脈硬化症による血管内腔の狭窄状態に血栓が詰まるかしたものです。ですから

心筋梗塞が、健康な心臓に突然発症することはありえません。そうなる前に、冠動脈血流の不全状態があって、心筋の酸素不足状態、いわゆる狭心発作が何度か繰り返されていたに違いないのです。そういう心臓では普段から心筋に対する酸素補給が不十分です。登山をすると心臓の酸素要求が非常に高くなるのに、それに血液供給が追いつかない、あるいは血管攣縮が起こって血流が途絶する、などによって突然に心停止が起こるのです。狭心症の発作がある人は誰もが突然心停止の危険があるから絶対山に登ってはならないとはいいませんが、狭心症の中でも『不安定狭心症』と診断されたらもう、山に登ってはいけません。

不整脈は必ずしも致命的ではないので、これは主治医とよく話し合って、どういうタイプの不整脈か、承知しておくことです。

ペースメーカー装着心臓の場合、これは私個人的には登山はお勧めしません。これも普段から主治医に相談しておく必要があります。

その他の心疾患の場合は、あくまで主治医と相談、ということになりますが、坂道・階段で息切れがする人、よく下肢に浮腫を生じる人は登山しない方が無難です。

 

b)                呼吸器疾患:原疾患がどういう病気であっても、坂道・階段で息が切れる場合は登

山してはいけません。

気管支喘息は、普段から発作のコントロールが出来ている人は登ってもいいと思います。しかし、運動誘発喘息といって、激しい換気が発作を誘発するタイプの喘息がありますが、これは治療によって運動で誘発されないことを確かめた上で行なうべきです。むしろ、山には排気ガスなどの有害物質がないからかえって喘息にいいと主張する意見もあります。

c)                  消化器疾患:高所では潰瘍性疾患は増悪しますから、完全に治療した上でないと、登山はしてはいけません。

肝臓疾患は、山に登る元気がある間は登ってよいが、無理しない。

d)                糖尿病:登山はむしろ奨励されるべきですが、山ではいつもより沢山食べるので高血糖になったり、反対にいつもより糖の消費が高まってむしろ低血糖になったりすることがあります。しかし、人体に対する影響は高血糖より低血糖の方が有害なのです。ですから、「山では低血糖に陥る危険性がある」ことに留意し、出発前に主治医にその対策をよく聞いておくことです。

e)                 リウマチその他関節疾患:いずれにしてもこれは、登山はお勧めできない疾患です。

f)                    脳卒中後:リハビリテーションの意味で登山をすることはお勧めです。但し必ず誰か付添いが同行すること。単独行は危険で、厳禁します。

 

§7 結語

以上要するに、山に行くための特別の健康保持法、などというものはありません。常に筋肉を使うことを心掛け、合理的な栄養と休養を摂るべきだという、ごくありふれた常識的な健康知識の実践に尽きます。