雪山讃歌の歌詞著作権由来記

高村奉樹
(AACK NewsLetter No13 JUN. 1999 より引用)

この冬、AACKホームページの伝言板に、沖津が関東グループのスキー山行計画として鹿沢行きを掲示して、参加をよびかけていた。鹿沢温泉の紅葉館には「雪山讃歌」の歌碑があるそうで、今回はその歌碑に献花し、正調「雪よ岩よ」を捧げたいという。これを見て、歌の発祥地が少し気になり、東京の森本に一寸問題があるかも知れないとおせっかいなメールを入れておいた。実はチョゴリザ遠征のあと大学院に滞留していた頃に、わたくしは、この歌詞の著作権取得の仕事のごく一部を手伝ったのだが、うろ覚えでは、歌詞が作られたのは、新潟の関温泉となっていたように思ったからである。

この歌については、伊藤宏範も話しているように、会費とともにかねてよりその著作権料収入が会運営の上に占める重要性は大きい。(AACKの現状と将来を考える —座談会の記録—。ニューズレター No. 5 一九九七 May)。さらに伊藤は土倉さんの追悼文のなかにもこのことについて触れ、AACKが文部省認可の法人となった一九六〇年、その同じ年に発行された一枚の文書、著作権信託証書について紹介している。(追悼 土倉九三、一九九七)。AACK時報の編集を担当していた伊藤は、一九九三年頃、土倉さんから「残された文書のなかには全くふれられてはいないが、「雪山讃歌」の著作権をAACKにとろうと考えついたのは僕だ」といわれたが、「詳しいことも聞かずにそのままになってしまった。残念なことをしたと思う。」と記している。その後、伊藤は何人かの人に尋ねたらしいが、著作権取得のアイデア誕生から、かなり面倒な事務作業を経て「著作権を認められた経緯の中での土倉さんの関与はわからなかった。決して表に出てこないところが土倉さんらしい。」としており、これが京都大学学士山岳会国際登山探検文献センターの安くはない借室料を毎年、まかなうのに補助的な役割を果たしていることを以て、「土倉さん、ありがとうございました」、と追悼文を結んでいる。

当事者の殆どが過去の人となっており、わたくしもどうやら老世代に属している現在、当時のことを少しは知る者として、この機会に「雪山讃歌」の発祥と著作権取得のことについて整理しておくことが、おせっかいながら義務かと考える。また回顧趣味のそしりをまぬかれないことを覚悟のうえで、幾人かのひとびとの協力を得て、それらにまつわる一文を記すことにした。

まず山岳会の海外遠征や法人化をはじめ永年お世話になっている近藤良夫元会長に伺った。著作権取得の詳しい経過は知らないが、以前、一九九三年に八三歳でなくなった工楽栄司さんへの追悼文に歌のことを書いた、と即座に文献を教えてくださった。さすがは近藤先生、記録はすべてみごとに整理されている。早速酒井さんに頼んで原文コピーをお願いした。

工楽さんは、一九二七年に第三高等学校に入学し、山岳部に入部して登山活動を始めた。「三高歌集 –一九七八」によると、「吹雪のする日はほんとに辛い」で始まる山岳部歌が出来たのはこの年であるから、工楽さんはきっと西堀英三郎さんなどと関温泉で一緒に合宿して、あの眼を輝かしながら、この歌を声高で歌っておられたに違いない。工楽さんはこのスキー合宿で会計をつとめている。
— 山岳 第八十九年、二二〇 - 二一二ページ

近藤先生は、この歌の著作権が問題になったのは、アンナプルナⅣの遠征以来停滞していた会として、チョゴリザ成功を機にまたヒマラヤへの意気があがった頃で、チョゴリザ帰りの桑原先生がなにかと活躍された時期だったな、と当時の様子をまとめてくださった。

そういえば一九六〇年は五八年のチョゴリザについで、酒戸弥二郎先生ひきいるパミール高原学術調査隊がノシャックにむかった年である。登頂は八月だが、神戸港から大型ジープはじめ装備などを船積みしたのは五月で、留守番役は荻野和彦を中心とする若手である。酒井、岩坪はたぶん五月頃から日本を留守にした。その酒戸先生が雪山讃歌の由来を確か文芸春秋の随筆欄に記し、それが著作権取得のための裏付けのひとつになったということを、聞いたことがある。これは以前から調べたいと思っていた資料だ。この三月、胆嚢と胆石摘出のため一月以上入院してしまったが、酒井さんはさきほどのコピーとともに、西堀栄三郎選集第2巻『未知なる山・未知なる極地』(悠々社刊、一九九一年)を見舞いかたがた届けてくださった。そこには文字どおり「雪山讃歌」を作詞したころ(初出『山と高原』一九五六年一月号ママ)の文章があり、西堀さん自身がまさに作詞のことを記している。時代は昭和のはじめ、西堀さんたちが、三高を終えて京大に入った頃、赤倉、鹿沢、五色では二、三回、京大だけでなく東大と合同でスキー合宿が行われた。笹ヶ峰にヒュッテができた頃でもある。

合宿が終って新鹿沢に泊まった。吹雪で滞在をよぎなくされたある日、四手井綱彦君や渡辺漸君と共に学校の山岳部の歌をつくろうではないかと提案した。しかし、わたしを始めこの連中は、およそ文才のない奴ばかりである。別に誰にほめてもらおうというわけではないので、でたらめな文句をならべたてた。その頃ラッセルをやりながらよく歌った「オー・マイ・ダーリン・クレメンタイン」の曲が気に入っていたので、その曲にあうように。誰がどの文句をつくったかは忘れてしまったが、どれも合作であったようだ。薄暗い部屋で、四手井君が一句一句できるはしから書き留めていたのを思い出す。
— 西堀栄三郎選集第2巻『未知なる山・未知なる極地』(悠々社刊、一九九一年)
(初出『山と高原』一九五六年一月号ママ)

ところでなぜいとしのクレメンタインなのか。外人教師が三高の英語の時間にこの歌を教えてくれたのや、とこれは昔今西さんに聞いたように思う。

間もなく西堀さんら昭三組は社会に出て、

「あの歌をうたうこともなくなったが、それを受けついだ三高山岳部の若手連がいつとはなしに歌いなれ、それを三高の校歌集に組入れた。そして誰かが「雪山讃歌」という題をつけた。何代かを経ていたので、讀み人知らずとして。」

歌詞ができた場所はこれで特定された。

ではこの歌は三高の後進世代にその後どのよう受けとめられていたのだろうか。そのことを推測させる文章をわたしはたまたま保存している。「梅棹さんとうたった歌 和崎洋一(「梅棹忠夫著作集」月報 五、一九九〇年七月)」によると、一九六四年はじめの京都大学アフリカ学術調査隊人類班の調査も終わりに近づいたマンゴーラのエヤシ基地では梅棹、富川と和崎が、夜気のなかで酒をくみ、戦前戦中からうたいついだ歌をうたいあった。後日になってたしかめるが、梅棹さんはこの夜のことを失念しており和崎さんは残念そうである。

・・・そういえば、今西さんも、「音楽抜き」だが、みんなでうたいあう歌は大好きだった・・・。中略 まず、山岳部歌のなかから。・・・・吹雪のする日はほんとにつらい/アイゼン付けるに手が凍えるよ/・・・(西堀栄三郎詞☆)、そんなにお前は何故嘆く/ (ホーフマンスタール作、森鴎外訳)、つづいて三高寮歌、「紅燃ゆる」「行春哀歌」と続く。
— 梅棹さんとうたった歌 和崎洋一(「梅棹忠夫著作集」月報 五、一九九〇年七月)

と記し、文末には、☆著作権協会許諾第9070346—001号と雪山讃歌の登録番号が注記されている。ついでに紹介しておくと、この三人に欠かせない歌として島崎藤村詩「初恋の歌」がでている。われわれの世代の結婚祝賀会の席で必ずといってよいほど、和崎さんはこの歌をはなむけとして感情こめて歌われたのだが、これは実は和崎洋一作曲なのだ。ただし著作権登録番号は付記されていないところをみると、少々もったいない気がする。

さてわたくしが京都大学に入学した昭和二八年には、宇治分校のバラック校舎で生物の久米教授が三高寮歌の指導をされた。新制高校から来たわれわれ新入は三高同窓会発行 昭和二七年五月初版『三高歌集』を購入し、午どきの階段教室には旧制高校の歌が響いたわけである。教えて貰ったのは「春東山の花に酔い」くらいしか覚えていないが、そこには雪山讃歌が三高山岳部部歌 讀み人知らずとして掲載されていた。高校山岳部時代に、上級生がつぶやくように歌うのを聞いたととがあるが、それはもっと単調で、日本の音頭のようなリズムであった。いわゆる正調の合唱を聞いたのは、間もなく出かけた金比羅山での新人歓迎会でのことである。岩登り練習前夜、わたくしたち新人部員は、江文神社の社殿で焚き火とどぶろくで歓迎され、中島ダンナ、斎藤Yさん、新人係の菊池クメローさんらの先導でいつしか雪山讃歌の合唱の渦に巻き込まれていた。その後も夏山の豪勢な焚き火をかこみ、とくに冬の笹が峰のストーブを囲むときの意気盛んな合唱。冬が似合うのも、歌詞に冬山登山の基本動作と感情が素直に読まれており、作られたときの雰囲気がいとも自然に伝わるからであろうか。

さて、作詞された場所である。関温泉とか、また妙高とか言われているが、京大ヒュッテもそのころに建設されているから、歌詞が継続的に創られ、複数の合宿地でブラッシュアップされたと考えるのが自然である。西掘さんの文章は読んでひととおり見当はついた。しかし今回はこの辺りについて、きっちりダメを押しておきたい。そこで退院後、ルームに残っている関係書類を吹田啓一郎に無理をいって取り出してもらった。日本音楽著作権協会会長 西条八十氏から社団法人京都大学学士山岳会あての著作権信託契約締結についての昭和三五年十月七日付け証書、送り状などが保存されている。しかしどういう形で申し入れたかについては資料がない。そこで当時の申請書が著作権協会に残っているはずと問い合わせているが、返事はいつになるのか。また酒戸さんの随筆を京都大学の本部図書館であらたに閲覧証を作ってもらって、地下二階の書庫で当時の文芸春秋約三年分をざっと調べたが目当ての文章にはまだ出会えない。焦る内に、締め切り厳守と編集担当新井氏から告げられた。そこで念のため著作権協会の担当者に昨日直接電話で問い合わせたところ、依頼の手紙は読んで資料を探索中という返事があり、その後一時間も経たぬうちに内国資料部 内国一課からファックスが届いた。資料はこれだけでしたという添え書きとともに、二通の確認書のコピーと、わたくしが探していた酒戸さんの随筆のコピーがちゃんと送られてきた。これで一挙にすべてが明らかになる。とりあえずお礼の電話をしたが、最近はダークダックスのメンバーのひとり佐々木氏が病気で、あまり歌われませんねと担当の矢嶋さんも残念そうであった。著作権料についての経過は今回は触れないことにしよう。とにかく四手井さんの確認書があるのは初めて知った。内容はつぎの通りで横書きである。
雑誌『文芸春秋』昭和35年5月号に掲載された酒戸弥二郎氏の「雪山讃歌の作者」に記載された事実は真実であります。

私は当時、京都帝国大学学生としてこの行に参加しておりましたが、昭和二年一月、吹雪に閉じこめられた鹿沢温泉の宿舎で西堀栄三郎氏が「雪山讃歌」を創作したことは上記酒戸氏の文章のとおりであり、爾後、旧三高山岳部部歌として歌われてきたものであることを確認いたします。
昭和三五年八月一七日
京都大学理学部教授
理学博士 四手弁綱彦 印
 

もう一通もほぼ同文で、広島大学医学部長 医学博士 渡辺 漸 で捺印されている。ちがいは「私は当時東京帝国大学学生としてこの行に参加し」というくだりと日付が同年八月十日となっていることである。渡辺さんはわたくしが依頼状を出した相手、先輩である。たしか封書で送られた返事には当時の事情がぺンで記されていたと思うのだが、最終的に提出された書類は、邦文タイプで打たれていた。いずれも酒戸さんの文章が鍵になっている。

さて、ここで両氏の確認書が対象としている酒戸さんの文章「雪山讃歌の作者」にはどんなことが書かれていたのだろう。これで図書館地下通いから免れたという安猪感もあって、讃みずらいコピーを一気に読んだ。酒戸さんは、わたくしたちも「やじさん」と呼ばせてもらう気楽な先輩であったが、日本茶の旨昧の成分、テアニンを茶葉から抽出し同定することによって日本農学賞を受けられた化学者である。また書かれる文章は辛辣ではあるが、たいそう軽妙であった。送られてきたコピーは、実は文春文庫に収録された文芸春秋「巻頭随筆(Ⅱ)」一九八〇年三月刊、の三五一~三五三ページに掲載されたもので、はじめの肩書きは(静岡大学教授)だが文章末尾には(故人)と記されている。著作権申請時の初出本ではなく後に出版されたものが資料になっているのは何故だろう。いまはそれはさておき、とにかく読もう。

黒沢明の『生きる』という映画の中で、吉井勇作の『命短し恋せよ乙女』という歌を、無断使用したというので問題が起り、なにがしかの使用料を払って落着したとか聞いている。この話を聞いた時、パッと頭に浮んだのは『雪山讃歌』である。
— 文芸春秋「巻頭随筆(Ⅱ)」一九八〇年三月刊

にはじまるこの文章をすべて紹介するスペースはもうないが、でだしから吉井勇が出てくる当たり、何となく、当時「やじさん」が、「くわ」と呼んでいたひと、桑原武夫の気配が感じられる。

雪よ岩よ我らが宿り・・・この歌の著作権を取っておけば良かったのだ。そうすれば、ヒマラヤ行きの費用などは、いくらでも出るのだったのに・・・。
— 文芸春秋「巻頭随筆(Ⅱ)」一九八〇年三月刊

京都の第三高等学校の歌として酒戸さんが知ってるうた、「雪山讃歌」は当時流行の「南国土佐」ほどではないとしても、広く日本中に拡がり、大変多くの人に歌われ、親しまれている。さて三高歌集にすら作者不詳となっているこの有名な歌は誰がつくったのであろう。ということから、三十数年前、昭和二年一月には鹿沢温泉で、翌三年には東大の青木小舎で東大と京大の両山岳部交歓合宿がおこなわれたが、その夜の部で、輿のおもむくまま、第一回南極越冬隊長として知られている西堀栄三郎がこの歌を作ったことが紹介されているのである。なお当の西堀は、第二回合宿の帰り途、山を越して高湯温泉で滞在したときに作ったと主張しているが、酒戸さんはじめ

多くの同行の人びとの証言では、第一回の鹿沢温泉滞在中に、数日に亘って作られたというのが、どうやら史実のようである。  -中略-  ただ、この題名は誰が付けたのか、今もってわからない。
— 文芸春秋「巻頭随筆(Ⅱ)」一九八〇年三月刊

近藤先生の文章も、工楽さんたちが関温泉でこのでき立ての雪山讃歌を歌ったという事実が記されているのであって、そこで初めて歌われたと言ってるわけではない。これで発祥地についての「真実」に疑問をはさむことは止すことにした。ただし前出の西堀さんの文章にはつぎのような一節がある。

わたしは岩登りも沢歩きも一通りやってみたが、やはり雪山の方が好きである。真白なスカイラインにくぎられた紺碧の空。今から四〇年も前に関温泉で初めて見たこの景色は、わたしを終に南極まで行かせてしまった。 — 西堀栄三郎選集第2巻『未知なる山・未知なる極地』(悠々社刊、一九九一年)
(初出『山と高原』一九五六年一月号ママ)

やはり関温泉への思慕も深く、わたくしたちはそこにも雪山讃歌の世界をみるおもいがする。酒戸さんの文章に戻ろう。そのあとが面白い。なぜこの歌がこんなにまではやるのか、宣伝しているわけでもないのに。しかも

この歌の文句は、全体としても必ずしも名句と言い難く、中には甚だ幼稚な句も存在している。
— 文芸春秋「巻頭随筆(Ⅱ)」一九八〇年三月刊

と手厳しい。さらに

「町には住めないからに」などというのは京都弁まる出しではないか。それが全国にはやるから不思議である。
— 文芸春秋「巻頭随筆(Ⅱ)」一九八〇年三月刊

と大阪人「やじさん」の批判が続く。ここらあたりは失礼ながらわたくしも同感である。しかしさきにも述べたが、登山者はこの歌詞には積雪期登山の生活パターンと心情が、リアル、簡潔にまとめられているところ、一般の人々にとってはマーチ風の快活なリズムとともに、歌詞が日常生活と山登りのある種のアナロジーを感じさせるところが受けたのであろうか。こうした傾向をダークダックスの歌唱法とイメージがさらに助長した。

「明日は登ろうよあの項きに。」

さて酒戸さんは、

本人は恥ずかしがってだまっているが、著作権使用料はともかく、彼の作ということは知っておいてほしいものである。
— 文芸春秋「巻頭随筆(Ⅱ)」一九八〇年三月刊

と締めくくる。これが掲載されたのは文芸春秋の五月号であるがその発売直後、酒戸さんはノシャック向けて出発されたはずである。わたくしたち送り出し役は、羽田空港からの出発前、東京で先生と朝食を共にしたが、諸手続にいかに忙しいか、にもかかわらずポンパンこと吉井副隊長がいかにのんびりして隊長がやきもきさされるか、などの話ばかりで、勿論こんな文章を置きみやげにして行くなどという話は聞く暇もなかった。

あのころのAACKは、まさにカンパニー(総合商社?)で、人事はともかく外交を含む総務、会計にはそれぞれ担当の重役クラスの先輩が当たっていた。雪山讃歌の著作権を取得して、法人としての経理の円滑化をはかろうというアイデアがどこから出たにせよ、すぐそれを実行に移すというところに当時の底力、機動性のすごさを感じる。先輩のなかでそれぞれに役割がおのずと決まっていて、酒戸さんは遠征に出る前にひと仕事してゆくことを求められ、作詞の中心人物西堀さんを中心に、文教専門委員である工楽さんは、山岳会法人化のしごとにくらべると、素人にはともかくとして、さして難しくない歌詞著作権の取得を画策したのであろう。チョゴリザの準備中になにかと桑原さんを応援した土倉さんが、伊藤がきいたように仕掛人であったかも知れない。桑原さんはチョゴリザ登頂成功だけでなく、多くの同期の仲間を糾合して証人とし、雪山讃歌の著作権を後輩のために残すために大きな役割をはたしたものと思われる。またその後の著作権が会に対して大いに貢献したのは主としてダークダックスであろうか。だれか関東グループのメンバーによって、かれらへの感謝の気持ちをつたえてもらっても悪くはない。しかし気配りの西堀さんはすでにかれらと面識があったかも知れない。などと書き出せばきりがない。いずれにせよこの歌の誕生は、笹が峰ヒュッテの誕生とほぼ時代を同じくしている。現在、新しいヒュッテをはじめ、次代のための大きな遺産が中堅の会員によっていろいろな分野で築かれつつある。今度はそれらが人類共通の使用権をみとめる壮大な遺産、音楽で言えば「交響曲」として笹が峰に響く日を待ちのぞみたい。


「雪山讃歌」歌碑除幕式

羽根田博正
2002.06.01

6月1日に上の歌碑建立の式典が妙高高原町により行われました。
京大からは田中二郎山岳部長、笹谷哲也、羽根田博正、横山宏太郎夫妻が出席しました。
歌碑の場所はヒュッテより徒歩数分手前、林道沿い南側の牧場内です。歩いて入れるようにしてあります。


歌碑記載文


雪山讃歌
西堀栄三郎ほか作詞
アメリカ民謡

雪よ岩よ われらが宿り
俺たちゃ町には 住めないからに
シールはずして パイプの煙
輝く尾根に 春風そよぐ
煙い小屋でも 黄金の御殿
早く行こうよ 谷間の小屋へ
テントの中でも 月見はできる
雨が降ったら ぬれればいいさ
吹雪の日には ほんとに辛い
アイゼンつけるに 手がこごえるよ
荒れて狂うは 吹雪か雪崩
俺たちゃそんなもの 恐れはせぬぞ
雪の間に間に きらきら光る
明日はのぼろよ あの頂きに
朝日に輝く 新雪ふんで
今日も行こうよ あの山こえて
山よサヨナラ ごきげんよろしゅう
また来る時にも 笑っておくれ
   
解説板記載文


「雪山讃歌」

この歌は大正末から昭和の初期にかけ、毎年正月に、山とスキーを愛する京大生らがスキー合宿に集まった際、アメリカ民謡「オー・マイダーリン・クレメンタイン」の替え歌として歌ったのが始まりとされ、その後、京大の山岳部歌となり、後年ダークダックスが歌って、一躍有名になりました。

多くの世界的なアルピニストを輩出した京大山岳部の全ての部員は笹ヶ峰に集い、雪山讃歌を歌いついできました。

元の歌詞には、京大ヒュッテから見える山々を歌ったものもあるようです。

これを記念してこの地に雪山讃歌の歌碑を建立しました。

 

以下が当日の様子です。     

妙高高原町長あいさつ(笹谷哲也撮影)
新しく建立された雪山讃歌歌碑(妙高高原町提供)

除幕後、妙高高原混声合唱団により「雪山讃歌」合唱(笹谷哲也撮影)
京大より出席の笹谷哲也、羽根田博正(右から)(横山宏太郎撮影)

除幕式後、京大笹ヶ峰ヒュッテにて。田中二郎、羽根田博正、横山宏太郎(右から)(笹谷哲也撮影)